客観視の果のモラハラ耐えだったってこともあるから『愛のままにわがままに僕は君(という自分)だけを傷つけない』を時には発動すべし
タイトル長っ。
この名曲のタイトルをねじ込むスタイルで熱きB'zファン達が少なからず反応してしまい、
電子くらげというB'zの熱き魂とは真逆みたいな生き物の記事を目に入れてしまうかもしれないと
書きながら、ちょっと面白くなってしまったkoedananafusiです。
どうも!!
さて、今回はしっかりタイトル回収する記事を書きたい。
長いし、上手くまとまってないです。(ほんとに長い)
お暇な人、思わず開いてしまった人、どうぞお付き合いください。
私は昔から自己分析の人です。
故に診断系も好き。
自分自身との会話も多い方ですが、外から見たい私のこと。
そう思っています。
結果にもそれがあらわれています。
この間記事にした診断結果。
の中のここ。
客観型の割合が高め。
客観視とGoogle検索ワードにいれると割といい意味が出てくる気がしますが、私はこの客観視の罠にハマったと感じる過去を持ちます。
色々ある中で、私が一番病んでメンヘラ化していた時のお話を元に、その罠について書いていきます。
あれは、職も決まらず、それまで数年同棲していた彼氏をやっとフッて追い出し、1人で犬2匹と猫1匹を抱え、家賃の心配をしながら心療内科にかかったりしていた頃。
当時の私は、何処かで『助けてくれる誰か』を渇望していました。
そんな時に出会ったのが、14歳年上のバツイチ子持ち(子供は母親側)という中々パンチのある男性でした。
彼とはネットで知り合いました。
それこそ今のnoteの仲間たちのように、いや、それよりずっと濃密にやり取りをする人達の中に彼はいたのです。
凄く年上。しかもバツイチ。
初めてリアルであった時は離婚調停中だったはず。
当時21歳くらいだった私は怖いもの知らず。
バツイチだからヤバイとか、そういう先入観に囚われることが大嫌いでした。
試してみなければ解らない。
なにより、その時の私は『もし、ネット上の人間と会って、殺されたとしても構わない。私は私のしたいようにする。』とか思っている子だったので、バツイチくらいではびくともしなかったのでした。
しかし、これが私をどんどんメンヘラ化させるモラハラ男だったのです。
初デートの帰りの車の中でボソッと「幸せにするよ」と言われた時の違和感がそもそも、私が恋愛に向いていない兆候だったのですが、当時の私はそんな事を払い除け、頼れる大人と恋人になれたことに安堵と好奇心を持っていました。
しかし、フタを開けてみると何か違う。
当時の日記が物語っています。
当時の私は鬱かというと診断もされてないし、違う気がするのですが、それくらいには追い詰められた精神状態でした。
自分の母親が精神疾患だったので、一通り知識が頭の中にありました。
私は知らない事は調べて、傾向と対策を練るタイプ。
ちなみに過去の日記に出てくるタブーな言葉とは「頑張れ」です。代表的ですね。
当時の私はその言葉を「背中に突き刺さる矢」と表現して詩を書いたりしています。
これを話した彼は激高。
そんな理由で他人を傷つけてもいいのか的な言葉を永遠聞かされた私は泣き崩れるしかありませんでした。
このあたりで、別れてしまえば良かったのですが、私は私が精神的に追いやられていることを知っていたし、そんな母親の相手もしていたので、精神的に荒れている時の私と会話をすることがどれだけ大変かを『客観視』したのです。
外から見た私は、かなり支離滅裂です。
彼に理解力が乏しいことも何となく解っていたから、そんな彼に理解させようとする私が悪いのかもしれないと思ったりしました。
そして、頑張れば、変われば、
彼は大人だからきっとそのうち解ってくれると、そう期待したのです。
若いな私。甘いな私。
今の私ならしないような無茶でした。
もうズタボロなのに何を頑張るんだい君は。
私の気持ち『主観』
と
外の世界から見た私『客観』
を
いつも同時に見ていました。
どちらも大切だと知っていました。
主観はともかく、客観は多面的。
様々な角度から、自分なりの分析を重ねていきました。
そして、重ねたぶん客観の方を優先する癖がありました。
自分の気持ちはあくまで自己中心的なもので、優先順位は低いと考えていたのです。
私の恋愛は、私の自己犠牲の上に成り立つものでした。
でもそれを選んだのは確かに私だからと、背負う気でいたのも確かで、客観的云々の他に、譲らない頑固さが私にはありました。今もですね。
私の精神の視野は……これを言うと驕っているようで嫌なのですが、多分、人より広いのだと思います。私の思い違いでなければ。ずっと小さい時から。
だからこそ、見え過ぎる。
そして、私の容量はけして大きくないので処理落ちするわけです。
それが私のメンヘラ行動を加速させたのだと思います。
客観できているのに、歯止めのかからない主観に猛烈に苛立ち続けていた気がします。
相手を尊重すると、自分を蔑ろにする。
自分を尊重すると、相手が傷つく。
それをコントロールするのが下手でした。
確か診断にそんな事も書かれていましたね。
本当…その通り。
彼は、人に圧を無意識にかける臆病なモラハラ男。私は自己犠牲でいいやと思ってしまうメンヘラ気質。
相性バッチリな気がします。最悪な方向に。
勿論、周りから心配の声も多くありました。
私自身も、彼はちょっと…駄目かもしれないと思っていました。
客観的に見れば、別れるのがいいのです。
無視し続けられるメール。
電話しても出てもらえない。
休み予定はすっぽかされる。
具合が悪くて嫌だといってもセックスさせられる。
さっと思いつく限りを書きました。
本当にさっと書きました。
最悪ですね。
今の私ならそもそも、最後は許さないし、その場でポイするけれど、当時の私はこんな恋愛しか出来ませんでした。(この人の他にあともう一人、これとは別タイプのモラハラ彼氏が私の思い出には控えています…その人のことは今回は割愛しています…)
しかし当時、精神的に参っていた私は何故かこういう時だけ主観『私は彼を愛してる(に違いない)彼も私のこと好き(にちがいない)今は二人わかりあえないけど、きっと変わっていける!!何より私には彼が必要!!信じるといったのは私だから、私は彼を諦めない!!』を発動。
えーっと。1言だけ。当時の私に言わせて。
君は馬鹿だ。
というわけで、主観と客観がいりまじる、当時の日記をまたまた公開。
電子の海に流したもの。
彼に送ったメールをそのまま晒しています。彼の見ない電子の海で。
その後に、電子の海の仲間には『叱らないでほしい』とお願いしています。
私は私がしていることが愚かである事も……よく見えていたのです。
恐ろしい長文ですね。
あと精神的に参ってるから普段ならしないような追い縋りみたいなことしてますね…。
こんなのを何通も送られる彼氏もたまったもんじゃない。束縛は嫌だと言われていました。
書いてあるように私も束縛は嫌いです。
でもね、無視はいけません。
メンヘラが加速しますから。
束縛をしないというのは信用、信頼の元に約束されるものだと思います。
彼氏に送ったメールが「誘い受け」だということも、こんなことを書かせる彼氏にも悪いところがあるということも、自分の行動がかまってちゃんと呼ばれるものだろうということも、電子の海の仲間が心配してくれるだろうというどこか甘えた考えをしているということも、とにかく様々な方面の思考で、考えたり思ったりしていました。
彼氏に空メールでもいいとおくりながら、初出勤頑張ってのみでガタ落ちした自分にもガッカリしたのだと思います。
そこで主観のままにガタ落ちし続けられないのが私なのです。
すぐさま色々な角度の分析が入ります。
調整を重ねます。
自己をそれなりに犠牲にしつつ、最善の道を探ります。主観だけで言えば、私はただの恋愛頑張る女の子ですから。
それでも、客観的に見ているからこそ、逃れられない事実や見えるもの、感情や感覚が押し寄せて来ます。
それがどういうことか…
イタチごっこのように、否定と肯定を脳内で絶えず続けるようなもの。
そして、それらはオモテにほぼ漏れません。
その場で決定したものだけが、この世界に流れていきます。
そういえば私の数秘は33ですが、こういう思考回路ですよと説明文を読んだときは納得してしまいました。
それが全てではないのですが、私の思考の仕方の大まかな流れはそういう感じであり、絶えず思考の渦の中にあるため、割と生きるだけで疲れています。
物事が多面的に見えることは素晴らしいことです。
自分を外から見れることも素晴らしいことです。
客観視することで、相手とのコミュニケーションがスムーズになったり、冷静でいられたりするのは確かです。自分自身の思いに溺れにくくもなります。
私も相手の立場や、自分の事を冷静に観察できることは素晴らしいと思っているし、そういう自分も好きです。
しかし、それには『自分』を見失わない強さが必要だと私は思います。
それがあって、客観視できると、色々な恩恵もあるのだと思います。
当時の私は弱りすぎていました。
だからこそ、己の客観視に耐え得ることが出来ず、己を犠牲にするなどという手しかつかえませんでした。もちろん、相手のことも傷つけました。
このまでで4500字ちょっとくらいかな。書きたりしてよくわからなくなりました。
今書いて足しているので更に増え続けます。
よく読んでくれました。有難う。
ここでタイトルの回収です。
自分を見失わない強さとは『愛のままにわがままに僕は君(という自分)だけを傷つけない』という気持ちを持つことだと思います。
名曲の歌詞を少しお借りしましょう。
B'zが熱く歌ってるのは恋人の事ですが、私はこれを自分に置き換えます。オールキャスト私の物語。
アロマンティックな私は、どんな他人より私を愛している恋人なのです。
他の記事でも度々書いているのですが、私は私と私達で生きているのです。
それをあらわすのに書き出した歌詞はぴったりな気がします。
そう思って、それを選ぶまでに、私が歩いた道のりはけして楽ではありませんでした。
今だって揺らぎだせばあっという間に崩れることを私はよく見えています。
そして、それを上手に修正する私がいることも見えています。
見えていると思っている私だけがいてそうでないかもしれないことも見えています。
これ以上書くと量がとんでもなくなりますが、こんなふうにとにかく重ねた思考に新しい他人の思考が混ざったりしながら私は私です。
恋人(自分)を犠牲にしない。
愛のままに、わがままに、私は私の選択を消さない。例えば太陽のような誰かの正義を貫いたとしても。
私はその屍を超えるくらい、私であるということを選んでいます。
客観視できるからこそ、私が誰より私を愛しています。
私の事を随分待たせました。
彼女を独りぼっちにしたのは、この私です。
手を繋ぎに行きました。
沢山の道を歩きました。
この先も肉体が頑張ってくれる限り
この星を見ていくと思います。
私の精神の底には凪と共に、1本の剣があります。
相当なことがない限り、私はきっとその剣を抜かないまま、相手の見えている世界を考え、自分の考えも考慮しながら、最善の、どちらも消えないで凍えないですむ道を探すでしょう。
時にそれは道を違えることかもしれません。
しかし、それでいいのだと今の私は思います。
執着して、傷つけあって、何もかも捨て去るくらいなら。
愛のままに、わがままに僕は君だけを傷つけないからそのぶん誰かに優しくあれ。
私は私と私達。
裏切る事などできない。
たとえそれが地獄でも付き合うときめたから。
だから私は誰かに優しい人でありたいし、見えるぶんを誰かの為に使えたらいいと思っています。
なにぶん、面倒くさい奴です。
よくわからないことも言うでしょう。
間違う日もありますし、乱暴な時もあります。
それでもどうか、広い広い電子の海でこの文章を最後まで読んでくれるあなたの世界をゆらゆら揺らしていけますように。
こんな纏まりもない文書を最後まで読んでくれて有難う。