いつから私と私達なんだろう?
私と私達。
私のことを私はそう表現する事がある。
しばらくフォロワーさんな方は見慣れた表現だと思うが『私は私と私達』というのは、噛み砕いて言うと、私が森だとするならば、木の一本一本が私達だ。
私達も私であり、私も私達である。
過去の私が私達を考える文書を書いていた。
題名は
『色忘れ』である。
当時の彼女はその文書にコメントをくれた友人に『全部。きっと全部なんだよ』と返していた。
ここにも載せようと思う。それは2011の秋の私と私達。
私は私と私達。
森を東から入るのと、西から入るのでは違うの。
どのルートで抜けるかでも違う。
そういうのを私の中で
あまり意識しないでやっていた。
みたいだ。
今もそうだけど
無理やり作りこんでるのとは違う。
演じているという言葉を使っているが
適応しているというのがいいのかもしれない。
でも適応してない私もいるので
その私が具合が悪くなるだけで
適応している私は具合は悪くならないだけ……みたいな
なんとも説明しにくい事が起きていたりする。
本当に森みたいなもんだと思う。
1本の木が枯れたり、折れたりしても、森自体は存続するでしょ?
…そういえば、これにコメントをくれた友人には『お前は森野夜だよ。乙一の小説の』って言われて本を読んだっけ。
ちょっと似てて、でも違うなって想ったの思い出したよ。
完璧に場所まで別れていたら、きっと世の中的な名前が何かしらつくんだろうと思った。
けれど、私達は私だし、私も私達だって、それだけは手放さなかったから、お互いが森という『その場に在るもの』として存在し続けているのだろう。
どうしようもなく、私なのだと、そう感じている。
私がこんなだから、誰かの変化も割とすんなり受け止めるし、納得出来るんだろう。
こんなの、ただの、生存戦略だもんね。
その時に生きやすくて、好きだと思う形になればいいよ。
魂の核までは書き換えなんてきっと出来ないから、それを覚えておけばいい。
大地が私達を繋ぎ止める。
見えない土の下で私達は手をつなぐ。
まるで一つの巨大な生き物のように。
何時だって其処に在る。