学校では教わらない近衛文麿の戦争責任
※今日の記事は一段と長いです。マジ長いです。
毎年8月になると、終戦の日が8月15日ということもあり戦争にちなんだ番組がよくやっているらしい。
わたしは滅多にテレビを観ないのでよく知らないがNHKの「映像の世紀」は唯一観ていてあれはなかなかいい作品だと思う。
日本の戦争については諸説あるが、だいたいは1931年に起きた満州事変から1945年8月15日に終戦を迎えた大東亜戦争までを「15年戦争」と言って主に特集することが多い。
その中でよくテーマに上がるのは「この戦争は誰が起こしたのか」「この戦争は誰が悪かったのか」という議論だと思う。
中国や韓国、アメリカでは1941年12月8日の真珠湾攻撃の時に総理大臣を務めていて、戦後東京裁判でA級戦犯として絞首刑になった東條英機が元凶であると言われている。
ニュースなどで東京裁判の話をする時も「東條英機ら7人のA級戦犯が絞首刑に…」という言い方をするので名前くらい聞いたことがある人もいるかもしれない。
だが、果たして本当に東條英機があの戦争を引き起こしたのか。
片方で「満州事変から15年間の戦争」と言いながらもう片方で「戦犯は東條英機」というのは無理があるのではないか。
なぜなら15年間の長い年月の中で東條英機が総理大臣を務め国の運営に携わったのはたかが2〜3年。
しかも首相に就任した1941年10月の時点ではほぼほぼアメリカとの戦争は確定事項であった。
ここでわたしが行き着いたのがタイトルにある近衛文麿という人物である。
彼は東條英機と違って軍人ではない。
近衛家はもともと平安時代の名門貴族であった藤原氏の末裔であり、当時は「華族」と呼ばれる特権階級の家柄であった。
つまり近衛文麿はいわゆるお公家さんであった。
文麿の父は近衛篤麿といって貴族院議員の政治家であり、かつアジア主義者であった。
先日書いた頭山満にしかり、日本の伝統的な右翼は世界的に珍しく「自分の国さえ良ければそれでいい」のではなく「アジアの国々が団結して欧米に対抗しなければならない。だから日本が盟主としてアジアの国々の独立を支援しなければならない」という思想が強かった。
だから頭山満のように中国やインドの独立運動や革命運動に積極的に支援をしたり植民地の国に追われている活動家達を匿って資金援助をしたりしていた。
文麿は父からこのようなアジア主義的な思想をどこまで受けたかは分からない。
なぜなら父篤麿は文麿が13〜4の時に亡くなっているからだ。
なのでこれ以降は近衛と書かせてもらう。
近衛は華族の息子らしく学習院に進み、エスカレーター式に大学まで行くはずであったが、新渡戸稲造を信奉していたことから旧制第一高校に進んだ。
第一高校は当時のエリート達の中でもさらにひと握りの家柄だけでなく学力的にも優秀な人物しか進めず、のちは帝大に進んで政治家や官僚や外交官になる者達が進む学校であった。
近衛はもともと哲学者を志望しており、東京帝国大学の哲学科に進んだが、ある教員の教えを請うために京都帝国大学法学部に転学している。
※東京帝国大学は今の東京大学、京都帝国大学は今の京都大学である。
その教員は河上肇という人物だが、彼はいわゆるマルクス主義者といわれる、要するに共産主義者であった。
この時は熱心に河上の講義を聞き、さらには自宅にまで通い詰めてマルクス経済学や社会主義思想について学んだ。
その後、京都で総理大臣経験者であり、当時元老という職についていた西園寺公望に見出され、貴族院議員となる。
第一次世界大戦後の世界秩序について話し合うパリ講和会議に全権のひとりとして参加して、この時に保守系雑誌に「英米本位の平和主義を排す」というかなり過激な論文を発表。
さらには会議の最中に人種差別撤廃法案を訴えたがアメリカのウィルソン大統領の強い反対にあって実現しなかった。
この経験から近衛は強いイデオロギーに基づいた反英米主義に傾倒する。
この少し前に一高や東京帝国大学ではある人物達が同級生として親交を深めていた。
それは尾崎秀実、松本重治、牛場智彦、風見章といった面々で、彼らはのちに総理大臣となった近衛のブレーンとして裏側で政治活動を展開する。
近衛が政治家になり、表舞台に出てきた頃の日本は混迷を深めていた。
昭和恐慌の煽りを受けて国内では深刻なデフレに突入していた。
格差が広がり、地方は疲弊して、特に東北地方では娘を身売りする家庭が続出した。
(今で言えば子供を育てられなくなった家の娘が吉原のようなところに売られることである)
いつしか「満蒙は日本の生命線」と言われ、混乱する情勢を打破するために関東軍は満州で張作霖爆殺事件や柳条湖事件を起こし、満州全土を掌握した。
※関東軍→ 関東とは山海関の東の意味で、はじめは関東州と南満州鉄道の保護にあたっており、満州国成立後は満州全域を守備していた。裏任務としては陸軍の仮想敵国であるソ連の動向を探る任務もあった。
※張作霖爆殺事件→ 1928年、中国東北部地域を支配していた張作霖が関東軍の一部軍人によって殺害された事件。張作霖は中国統一を目指す国民政府の北伐軍との戦いに敗れて満州へ戻るところ、乗っていた列車ごと爆破された。ソ連の特務機関が真犯人説もある。
※柳条湖事件→ 1931年深夜、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐を中心に中国東北部の奉天近郊の柳条湖付近で南満州鉄道線路上で自分で爆薬を爆発させ、これを中国軍のしわざだとして近くの中国軍兵営を攻撃。満州一帯を占領した事件。
政治の混迷と政党政治家への不信感。
そして関東軍の一連の動きで国民は政治よりも軍を熱狂的に支持をした。
また、青年将校と呼ばれる年齢が若い、士官学校を出たばかりの少尉~大尉の軍人達が「昭和維新」を叫んで五一五事件や二二六事件を起こして政治家や軍のお偉いさん達を殺害した。
こうした政治の不信感の中で、国民からも軍人からも天皇からも支持を得たのは貴族の中でもかなりの家柄であった近衛文麿であった。
こうして近衛文麿は1937年に第一次近衛内閣を発足させる。
なお、内閣発足後に記者会見を開いて官房長官がマスコミに閣僚を読み上げることが今でもあるが当時もあった。
当時は官房長官ではなく書記官長と呼ばれた。
その役職に就いたのは先ほど名前が出てきた風見章であった。
※風見章は超重要人物なので覚えていてほしい。
発足直後に中国の盧溝橋で演習中の日本軍兵舎に銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
いわゆる盧溝橋事件である。
さらには中華民国の軍にも銃弾が撃ち込まれており、双方「中国軍の仕業だ」「日本軍の仕業だ」として小競り合いに発展した。
教科書では「盧溝橋事件を契機に中国全土に戦火が広がって、日中戦争になりました」とあるが厳密に言うと違う。
実は盧溝橋での小競り合いは現地で停戦協定が締結されていた。
日本側は現地司令官は宮様(天皇の親族。要はお飾り)であり、さらにその下の司令官は病床にふけっていたので戦うことが難しかったからだ。
さらには東京の陸軍参謀本部も陸軍省も戦線拡大に反対であった。
※陸軍省と参謀本部→ 陸軍省(軍政と言って予算や人事など陸軍を管理する)参謀本部(軍令と言って用兵や作戦など軍隊を運用する)
しかし、近衛は風見や昭和研究会のブレーン達と話し合い、緊急閣議を無理やり開いて戦線拡大を決定。
近衛は「暴支膺懲!」と絶叫して朝日新聞はデカデカと掲載。
社説では論説委員の尾崎秀実が「支那の暴挙を断じて許してはならない」と国民のナショナリズムを煽りまくった。
そして嫌がる軍部を無理やり戦線拡大へと突き進ませた。
※昭和研究会→ 近衛文麿の新体制運動に大きな影響を与えた国策研究グループ。 後藤隆之助が主宰し後藤文夫,風見章,佐々弘雄,大河内一男,蝋山政道,有沢広巳,三木清,尾崎秀実(ほつみ),笠信太郎などの学者・言論人・官僚などによって1936年結成。
※暴支膺懲→ 中華民国・蔣介石政権に一撃を加えることで排日抗日運動に歯止めをかけようという意味で使用した合言葉。言葉の意味は「暴戻支那ヲ膺懲ス」の短縮形で、「横暴な中国を懲らしめよ」を意味する。
しかし、まだこの時点では戦火は北支(中国東北部)に限定されていた。
しかし、中国軍が通州と呼ばれる地域で日本人居留民を虐殺する事件が起きる(通州事件)
さらには上海にて海軍のキャリア将校とノンキャリ軍人が殺害され、死体を陵辱される事件まで起きた。
これに激怒したのが海軍大臣の米内光政であった。
それまで「海軍は陸軍の戦争には他人事」と決め込んでいたにも関わらず、閣議決定もせずに独断で海軍陸戦隊を上海に上陸させ、事変は中国全土に広がった。
こうしていわゆる日中戦争、日華事変、支那事変と呼ばれる紛争が起きてしまった。
※事変と戦争の違い→ 国際法で決められたルールにのっとった戦闘行為(宣戦布告をおこなう)が「戦争」と呼ばれ(日清戦争や日露戦争など), 宣戦布告なしにおこなわれた場合は,戦争に準ずるものとして「事変」と称される(満州事変や支那事変など)
こうした裏で近衛と昭和研究会の面々は戦時体制を名目に、国家総動員体制を制定。
戦時に際し「国の全力を最も有効に発揮できるように人的及物的資源を統制運用する」ことであると定義し、国家総動員上必要と認められる事柄について、政府が広範な統制を行えるよう定めた法律であり、要するに資本主義経済体制は終わり全体主義体制へと突入した。
こうしている間にも近衛側近のひとりである朝日新聞論説委員の尾崎秀実は保守系雑誌や新聞に毎日のように登場しては「支那を叩き潰すまで戦いは終わらない」「支那の背後には英米がいる。英米も打倒すべき」と戦争を煽りまくる記事を書きまくった。
国家総動員法で一番に旗振ったのは内閣書記官長の風見章であった。
日本と中国の軍人はそれでも和解の道を探っていて、日本と同盟関係であったナチスドイツのトラウトマンに和平工作を依頼していた(トラウトマン和平工作)
この和平工作には先日記事を書いた右翼の大物頭山満な満州事変を起こした石原莞爾なども積極的に関わった。
しかしこれをぶち壊したのは近衛文麿だった。
1938年に中華民国の首都である南京が陥落すると近衛は講和の条件を大幅に吊り上げた。
中華民国の蒋介石としてはとても飲めない内容であった。
こうして交渉が行き詰まると「以後国民政府相手とせず」と一方的に宣言して内閣も放り投げた。
今で言うとウクライナとロシアの軍人同士が戦争をやめるために話し合いをしている最中にゼレンスキー大統領が「以後プーチン大統領は相手とせず」と言うようなもの。
相手国の指導者と交渉しませんと宣言してはもう戦争は終わらない。
めちゃくちゃにして放り出した国政はその後誰がやってもうまくいかず、2回目の総理就任が近衛のもとにやってくる。
第二次近衛内閣でやったことといえばナチスドイツとの接近が一番大きい。
元から近衛は社会主義にかぶれていたにも関わらず、反共産主義のヒトラーにも憧れていた。
仮装パーティでヒトラーの仮装をしたこともあった。
それもあって近衛はかなりの親独派であった。
こうして総理直々の希望でもあり、外務大臣松岡洋右の働きもあってついに日独伊三国同盟が締結された。
また、第二次近衛内閣では新体制運動を展開。
内容としては打倒財閥、既成政党や軍閥、宮廷官僚を一掃して、すべての国家機構が一つの党の指導下に置かれる独裁を目指した近衛新体制運動であった。
これは紛れもなく社会主義体制であり、旗振り役は国家総動員法に続き、この時司法大臣(現在の法務大臣)であった風見章であった。
ドイツやイタリアとの同盟締結はこれらの国々と戦っていたイギリスやフランス。
そしてイギリスやフランスを援助してきたアメリカを激怒させるものだった。
英米は日本への資源輸出の制限を始めた。
この時、支那事変は泥沼化しており、いよいよ資源の制限をされると資源を持たない日本としては立ちゆかない状況に追い込まれていた。
松岡洋右や陸軍のトップはドイツとともにソ連を挟撃することを想定していた。
ソ連軍とは出先の関東軍がモンゴルと満州の国境線でノモンハン事件で戦っており、全兵力を投入させたソ連に対して出先の部隊で戦った関東軍は何とか痛み分けに持ち込んでいた。
つまり泣く子も黙る関東軍70万を投入すればただでさえナチスドイツの電撃作戦で痛手を被っているソ連は崩壊するのではないか。
ソ連が相手ならば、共産主義に嫌悪感を持っているイギリスのチャーチル首相やアメリカ世論も反日感情を強めないのではないか。
というのが彼らの言い分であった。
これは北に進む作戦であるため「北進論」と呼ばれた。
しかし近衛と側近達は「ソ連に石油はない」というもっともらしい理由をくっ付けて南部仏印(南ベトナムやフランス領インドシナ半島)に進駐する案、いわゆる南へ進む作戦である南進論を選択した。
たしかにインドシナ半島に資源はあるかもしれないが、その目と鼻の先にはフィリピンがあった。
そしてフィリピンはアメリカの植民地であった。
これに反対した松岡洋右外務大臣をクビにするためにわざわざ内閣総辞職までやって、松岡抜きで第三次近衛内閣を発足させた。
しかし、ただでさえ日本に懸念を抱いているアメリカの植民地の目の前に軍を進ませる作戦である。
当然アメリカは激怒して日本への全ての輸出を禁止すると宣言。
日本と交戦中の中国、そしてイギリス、おらんだとともに日本を封じ込めた(ABCD包囲網)
※ABCD包囲網→ 日本の東南アジアへの進出に対して石油などの日本輸出を禁止したこと。ABCDは「America(アメリカ)」「Britain(イギリス)」「China(中国)」「Dutch(オランダ)」の頭文字。
もうにっちもさっちもいかなくなったこの時から急に近衛はアメリカとの和平の道を探り始めた。
そしてこの時近衛の近くでもうひとつの事件が起きていた。
それは近衛側近のひとりであり、新聞や雑誌で戦争を煽りまくっていた尾崎秀実が逮捕されたというのだ。
尾崎だけではなく、同じく近衛側近の西園寺公一なども連行された。
これこそこの記事の本題である。
罪状はなんとスパイ容疑であった。
そして尾崎秀実や西園寺公一の裏にはリヒャルトゾルゲというドイツ人がおり、ゾルゲは日本の同盟国ナチスの親衛隊を名乗っていたが、実はソ連の特務機関の一員であった。
彼らは日本政府の動向、閣議や有識者会議で決められた内容、そして陸軍省や参謀本部で立てた作戦の全てをソ連のスターリンへ流していた。
日本の作戦や行動は完全にソ連に筒抜けであった。
ノモンハン事件で戦ったあと、日本国内で北進論が出てきた時も必死にソ連と戦ってはならないと言い続けたのは尾崎秀実やゾルゲだった。
近衛は「知らなかった」「尾崎とはほとんど会ったことがない」とシラを切ったが、尾崎の妻が夫の逮捕当日の深夜に「あなたを信用していたのに裏切ったのか!」と抗議の電話を近衛の秘書にしている。
近衛は逃げるように内閣を放り出してその跡を継いだのが東條英機だった。
昭和天皇は東條に「戦争ではなく外交で進めるように」と言明し、強烈な天皇主義者であった東條は今までの思想を全て捨てて対米戦争回避に全力を上げたが結局アメリカやイギリスとの戦争は止められなかった。
12月初頭の対英米蘭との戦争が閣議決定され、昭和天皇に報告をする時、東條は号泣したという。
近衛はその後も総理経験者として発言権を持ち、終戦間近には有名な「近衛上奏分」を昭和天皇に提出。
戦争続行が日本の共産化を招くこと,また「国体護持」のために早期戦争終結を強く進言した。
しかし同時に、義弟には「ここまできたら陛下には悪いけれども日本国のために戦艦に乗ってもらい戦死してもらうのもまたありかもしれない」など今の時代でもおっかないようなことも言っている。
こうして態度をクルクル変えて戦後を迎えた近衛は日本にやってきたGHQのマッカーサーに取り入り、も「近衛さんは戦争反対を唱えていたと聞きます。新しい時代のリーダーはあなたです」とまで言われ、新憲法制定などのポジションを確約されていた。
※GHQ→ General Head Quartersの略称。 戦後日本の占領行政を担った連合国の機関。
しかし、GHQが日本の戦争犯罪人を裁くために調査を開始すると状況が変わる。
近衛内閣で次々と戦争へ突き進む法律などが決まったことが判明して、近衛は新しい時代のリーダーから一転して戦争犯罪人として逮捕されることになる。
こうした中で近衛は「ぼくの志は知る人ぞ知る」と残して青酸カリをあおり、自殺した。
近衛自殺の報告を受けた昭和天皇は一言
「近衛は弱いね」
と仰せになられた。
また、その遺書をお読みになった時には「近衞は自分にだけ都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に仰られた。
昭和天皇のこの言葉は近衛を最もよく表していると思う。
近衛は「自分は賢くて強い。世の中をアウフヘーベンしている」と思い込んでいた。
だが、実際は一部の共産主義者やスパイに利用され、時代や局面をことごとく読み間違え、大事な局面で総理大臣という重責を放り出してきた。
細かく書かなかったが、近衛は何か重大な局面になるとすぐに病気と称して荻窪の私邸に引き篭もるクセがあった。
近衛の一連の動きは今だに真意が分かってない。
私が読んだ本でも
・近衛は本当に平和主義者だったが軍部に無理やりやらされていた
・近衛は共産主義者やスパイに利用されていたが、途中で気付いて目が覚めた
・近衛こそ共産主義陣営の親玉だった
とバラバラだった。
だが、最後に近衛について一番近くで見ていた側近の細川護貞がこんな言葉を残している。
「近衛公はずっと痔で悩んでおられた。それは深刻だったようで、座るのも痛む。車が急ブレーキをかけるだけで大声を出すほど痛んでいたようでした。この頃は政策を決定するのも会議に参加しているのもやっとという感じでした。しかし、痔の手術をお受けになられてからは人が変わったように生き生きとされておりました」
これは新事実。
近衛文麿は痔のせいで国策を誤った説だ。
だが、たかが痔で300万人が亡くなる戦争に突入させたとあっては亡くなられた英霊に示しがつかないのでこの説は冗談ということにしたい。
こうしてみると、やはり近衛文麿の戦争責任は否定できないだろう。
教科書やテレビでは東條英機ばかりにスポットを当てているが、そろそろ近衛文麿の戦争責任を真面目にやらなければ戦後は乗り越えられないし、正しい反省もできないと思う。
まさかここまで長くなるとは思わなかった。
本当に申し訳ない。
最後にこの記事を書くにあたって読んだ本や参考にした動画を紹介して終わります。