歴史小説「Two of Us」第4章 J-1
第4章 Forward to The ”HINOKUNI” Country
(邦題:第4章 火の国へ )
J-1 ~@但馬AREA with IKEDA team~
細川忠興は、盟友の一人池田輝政とその家臣に、嘆願しました。
明智光秀亡き後の福知山盆地へ向かうよう、参勤交代の折に直接江戸屋敷にて、頼み込んだのです。
池田輝政は督姫の嫁ぎ先として徳川に寵用されていたので、上手く慮りの策を弄してくれそうだからです。江戸平定後、たとえ熊本藩主でも容易く藩外への移動は出来ないのでした。
福知山盆地は、朽木氏(くちき)の参万弐千石と、山家藩弐万壱千石の谷衛友(たにもりとも)の領地、さらに物部藩久木氏(きゅうき)二万石に三分割されていました。
徳川幕府安泰のために、強者だった武将の土地を没収し、細かく分けて謀略を起こさせない対策を施したのです。
東軍の武将の中でも、求心的な大活躍を見せた細川忠興は、九州の小倉城主、のちに肥後の熊本城主へと、外様大名と同じ扱いを受けていました。
毛利氏や島津氏、伊達氏や上杉氏などと同じく、徳川幕府安泰を脅かす存在として遠ざけ、勢力を削いで行ったのでした。
そんな中、山家藩谷衛友は同じく1563年生まれで、同じく信長、秀吉、家康の家臣として渡り歩いた身の上で、とても同調し易い関係でした。
さらに、谷氏は忠興の父細川藤孝(幽斎)の歌人としての愛弟子であったため、江戸時代もはるか熊本から歌会や茶会で、何かと山家藩谷氏の領地の寺を訪れているのです。
あなた珠子の妹の長女【珠子は伯母にあたる】が、ようやく忠興のもとへ、再び呼び寄せられる事となったのです。
側室として『明智』の血統は珠子以外にも残していたのでした。他の側室と思しき一色氏や浜野氏の女性は、地元丹後に帰されていました。
細川忠興の家系には12名の嫡子息女が記録されています。ですが、そのうち長女お長、長男忠隆、次男興秋、三男忠利、次女多羅までの5名のみ、ガラシャ珠子が生母だと云われています。
残りの7名の中には、側室で明智の血を継ぐ姪っ子の息女も居ます。(四男立孝は熊本藩で臣下の城主)
でも実は、まったく夫婦のどちらにも血統を持たない、つまり養子養女説の方が、丹波丹後地方では根深い言い伝えとして、二次資料に記録されているのです。
人によっては、12名全員がガラシャの血ではない養子養女だとも力説します。忠興が〈手打ち〉にした家臣36名の中の路頭に迷う家族の幼子を、
ガラシャが引き取り養ったのだと。忠興も容認していたのだ、と。
ガラシャ珠子を語る上で欠かせないキリシタン信仰は、ここでも諸説の家系伝説に寄与しました。まるで修道院のシスターのように、孤児となった家臣の家族を守ったのです。そして、味方の絆さえ増強していたのでした。
大火で炎上した大坂細川家屋敷を、一足早く抜け出していた女官の「シモ」が、玉造での出来事を一部始終、書に綴りました。
「西軍の人質に成る事を拒み、自害もしなかった細川ガラシャ珠子様が、私に託された使命でござります」
「清原マリア様(イト)は、珠子様と共に殉教の道を選ばれました。
小笠原少斎様は、珠子様の介錯後、自害なされました」
のちのち明治時代にオペラ歌劇によって逆輸入され、
「まことに強きタンゴの女王、その名はグラッツィア」
として広まった「細川ガラシャ人気」ですが、シモ(霜)が綴った『霜女の覚書』は、さらに彩を艶やかに添えて行きます。
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