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扱うのは人の心です

 教育者として生きている中で、同じプロの教育者の方々と話していて違和感をもつのは、なんだろう。素人の方々、これからプロになろうとしている方々ならば多少おかしなことを言っていても納得することは出来るが、実際現役のプロの教育者で更に「私はプロですから」という態度の方々にしばしばとんでもない違和感を感じるのはなぜだろう。

 その答えが最近出たので、ご報告。
自称プロの方々への違和感は「型を大事にする」ところだ。
私がもし、教育者の一番難しいところは、面白いところはどこですか、と尋ねられたら。私は即答で両方の問いに「人の心に向き合うこと」と答えるだろう。それくらい人の心と向き合うことは難しくてしんどくて興味深いこと。
 どうやら私が違和感を持っているのは、人と向き合うことをシステム化している人たちと話した時らしい。その人たちは不思議と空気みたいに見えないものを確信していて、「不登校は〜だ」とか「ヤンキーは〜」「この事件は〜につながっている」という定義みたいなものを多く持っている。それに対する対処策もそれぞれマニュアルを持っているらしく、それをご丁寧に後輩にまでレクチャーするという信じ込みよう。

 人は粘土の様だが粘土ではなく、茶碗蒸しの様で茶碗蒸しでもない(良い例えが思いつかなかったので、今食べたいものを書いた)。決まった型に流し込んだら、いつでも形良く固まるものではないのだ。
型ばかり知って、そこにぎゅうぎゅう押し込もうとしても、そこから勝手に出てくるか、ハマったまま出られなくなるか。そんなものが人の心。
そして温度だっていつも一緒じゃない。とてつもなく冷え切っている時もあれば、熱々で触れない時もある。
 簡単に型にはめれば解決、と思ったら大間違いなのだ。むしろうまく型にはまったら心配した方が良い。その子は押し込まれ過ぎて、その型から抜け出せなくなるかも知れないのだから。

 今、この国では明らかに人の心が大問題だ。あらゆる問題の根っこには人の「諦めた」様な「絶望した」様な心。大人になっても型から抜け出せず、その中から怒りの牙を剥く表情も見える。
 
 人の心を育てるのは、いつも教育。子どもたちに関わる立場の人たち。温度も形も硬さも違う子どもたちの心を柔らかく受け止め、一人一人に対して、またその時々に応じて対応出来る人がプロとしてそこにいるべきだと思う。
 同じ声掛けが同じ子に毎日同じ様に届くとは言い切れない。心の表情も一瞬一瞬違うからだ。そこで諦めたり、型に押し込めたりするのではなく、周りのプロと連携をとってじっくり子どもたちに関わることが出来れば、寄り添うこと、救うことは可能だ。でも今私が描いているこの様な環境は、ある意味この国では夢だということも付け加えておかなければならないだろう。
 私が違和感を持つのは確かに特定の人に対してだが、その向こう側に変えられないシステムがあることも知っているからだ。その「型」を重んじる方々は、毎日抱えきれない仕事に休日もしっかり休めるかどうかの生活の中で、人の心を「型」にはめる様な効率化を選ばなければ、自分自身を守ることが出来ないのだ。先生方が自分の力を十分に発揮したり、自分をアップデートすべく学び直したりする時間も心の余裕も与えられていない今、どうやって子どもたちにその柔らかい環境を作ることが出来るだろう。

 毎度同じところに着地してしまうが、教育を大切にしない国は滅びる。
私はいつも「自分の目の前を大切に」と思って仕事をしている。それを言い続けてきた。が、最近は少し冷めた気持ちも持ち始めた。ある程度自分の周りの教育関係者と共に学んだり自分が関わった子どもたちに自分の全力を注いだら、生きる場所は自分で決めたいと思っている。子どもたちにも「自分が生きやすい場所を自分で決めろ」と伝えるつもりだ。これ以上絶望したくない。
 
 でもささやかな希望は持っていたい。例え私が世界のどこにいたとしても、私は日本の教育を案じて祈り続けるだろう。そして声をかけ続ける。
 教育を大切にすれば、人が十分助け合って生きられる経済と心の豊かさと、防衛と。色々賄えると思うのだが…
「そんな希望を持つなんて、甘い」とまた誰かの型に押しつぶされてしまうのだろうか。

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