私的教育改革
昔から「自分だったらどうするか」を考えるのが好きだ。
駅でポスターを見て、キャッチコピーがしっくりこない。自分だったらこのテーマをどう見せようか。レストランでウエイターの対応が微妙。自分だったらこんな時どう対応するだろう。また、どうしたらお互い気持ち良いだろう。そうやって実際私は広告デザインに携わり、20種以上のアルバイトを経験し、自分の英語教室を開いて今に至る。
今最大の関心事は、教育。公教育の仕組みについて考える。
数学が大の苦手だった自分。高校時代、誰に聞いても、参考書を買っても全くわからなかった数学と物理のお陰で、自分には勉強は向いてないと判断した。そんな私が教師になっている、その経験上言えることは
「人には向き不向きがあり、そのバランスで社会は成り立っている。」
ということ。
もちろん義務教育の間までくらいはバランスよくいろいろな教科を経験するのが必要、という意見には私も賛同する。
ただ、私が一つ言いたいことは、基本にしては習う内容が高度過ぎるのではないか、ということ。
少し学校教育に携わってみて、また我が子の学校からの要求を見て思うのは、「子どもは与えれば与える程全部飲み込む」と変な過信があるということ。
各教科の専門性の高さはもちろん、プログラミング、英語、道徳、消費者教育、キャリア教育、伝統や文化、起業、金融、国土に関する教育…と、今や学校では子どもたちが息つく暇もない程に、子どもたちに情報を流し込む。
この教育改革は、一見「今」な気がするけれど、実際は日本の子どもたちが自分で考える時間がますます削られて、子どもたちはただ与えられたものをこなすだけ、という教育である。
カナダに1年間留学した娘は、日本で苦手だった教科が現地では難なく学べたと言う。聞けば高校で習う内容が日本の中学程度だったということ。
日本ではかなり苦労していたけれど、現地では自分の努力の範囲で学んだ実感を持つことが出来たという。その分、お菓子作りやガーデニング、環境問題や食品問題など、広い視野と自分や家族を楽しませる術を手に入れて帰ってきた。
「世界を意識して」行う日本の教育改革のはずが、欲張って盛り込み過ぎて一番大切な「自分で考える力」「自分で生きる力」を損なうという致命的な結果を産もうとしていることは、理解されているのだろうか。世界はそんなに急いでいない。むしろ急ぐべきは自分の利益を求めることではなく、周りとの協働、環境への配慮、そのための教育ではなかろうか。
そこで、私が考える教育改革。
①各教科の見直し。本当にそこまでする必要があるのか。今までのデータやテスト統計を参考に専門課程前に子どもたちが身につけておくべき学力やその内容を見直して授業を組む。
②基本的なことを学んだら、それ以降は成績で授業の差が開くことが無いように、授業は主に「考える」「考えを出し合う」「発表する」ことに時間を多く割く。プレゼンの準備の時間を多く取って、自分なりのアウトプットが出来ることを目標にする。
③中学、または高校では英語以外にもいろいろな言語を選択可能に。その中に日本語教育も入れる。日本語を教えることを視野にいれて学ぶ課程。
④空いた時間を使ってアルバイトを可能に。放課後教室で下級生のお世話や他の子どもの勉強を見ることを、学生のアルバイトに積極的にしてしまう。
私たちはいずれ社会で働く一員となる。子どもの頃に「何になりたいか決めなさい」ではなく、働くことを意識しながら成長出来るような流れを作ることが、より自発的に社会に関わる子どもを育てることになると思う。