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教育格差=〇〇格差

 教育に携わっていると、殊更に「〇〇格差」という言葉を聞く機会が多い。英語格差、教育格差、経済格差…「格差」は何を表そうとしているんだろう、そして何の目的で使われているんだろう。
 この言葉を受けて社会貢献や社会問題にみんなが心を向ける様になることが理想だとすれば、今この言葉で自分自身の可能性を捨てている人が多い現実は、理想からだいぶかけ離れている。もっと悪いことには、これによって多くの子どもたちが与えられるはずのチャンスを与えられずにただ「仕方ないよね。だって〇〇格差があるから」とたった一言で希望を断たれてしまうのだ。

教育のゴール

 この「教育格差」で表される教育のゴールは、恐らくテストで良い点が取れて良い学校に入ることが出来る、ということであろう。時々テレビなどで「ある国では入る学校で人生が決まる」と面白おかしく報道しているのを見かけるが、この考え方が笑いながらそれを見ている自分たちの中にも少なからずあるということを心に留められるかどうか。またそこで一旦立ち止まって「子どもが幸せになる方法は本当にそれだけなのか」と考えられるかどうか、その発想自体が格差を産んでいる気がする。
「あの国、大変だよね」
「そんなことで一生が決まったらたまんないよね」
と笑いながら、「そんなこと」に翻弄されて子どもに必要以上の圧力や期待をかけている現実に目を向けないこと自体がひいては子どもたちの希望を断っているという事実。

 「知識と知恵は、誰にも取られない」

 金品は人に奪われたり真似されたりするものだが、自分の中に備わった知識と知恵、経験は誰にも取られない上に生活する上で大きな役割を果たす。 
 無一文になった人がゼロからスタートする話に多くの人が胸をときめかせるが、まるで自分のこととは思っていない様子。無一文になった自分がどんなふうに底力を見せるのか、それはその人がそれまでに積み上げてきた知識と経験から得てきた知恵、そしてそれを助けてくれる人脈、それ以外には何もない。
 子どもたちをむやみに競わせ、数字ばかりを追わせ、大人の価値観まみれにしてしまった結果子どもたちはワクワクするような教育の真の目的を知ることなく、与えられたものをただ受け取るだけ、負わされるものをただ負うだけ、追わされるものをただ追うだけの子ども時代を過ごしているのではないだろうか。

親や先生の言う通りではいけない理由

 
「親や先生の言う通りになる子どもを育ててはいけない」

 私の敬愛する教育者の言葉を、私は自分の子育てにも教室の生徒に接する時にも片時も忘れない様にしている。
 親や先生の言う通りに動く子どもが「良い子」だと言われて久しいが、その間に私たちは思考停止を身につけた。親や先生のみならず「目上の人、立場のある人の言うことには無条件に従う」ことは自分の意思を抑え、自分の人生を捧げること。この時代の狭間、価値観が大きく揺らぐこの時期に「今まで」しか知らない人たちの言う事を聞いていて大丈夫なのか。
むしろ時代の風を感じてそこに乗っかるには「自我」がないと立ち行かないのではないのか、と指導者や親なら考える方が賢明だ。

 自分たちがされてきた様にするのが当たり前だという思い込みや、自分が若い頃押さえ込んできた少しの自己顕示欲や自己承認欲求を満たすため、様々な形で子どもや生徒の道を勝手に整えようとすること自体がどれだけ危険なことか、私たち世代は気付くべきなのだ。

 世界中ではZ世代と言われる10代から20代半ばの人たちの割合は増えている一方で、日本は減っている。減っているからといってそのままにしておいて良い訳がない。生きるために貪欲に学び、日本の子どもたちにない経験をしてきた人たちが彼らの仕事仲間となる。そこで共に生きていける人たちを育てるという大きな仕事に携わっている私たちの頭がグローバル化されていないのなら、せめて子どもたちの邪魔をしない様にしておきたい。心からそう思う。

自分で決めたかどうか

 本を読んでいる人は知識が豊富。
海外生活を経験した人は視野が広い。

 私の経験上、これは両方とも確信を持って言える。
でもそれは両方とも「自分で決めた場合」に限る。

 親が先回りして「これはしておきなさい」と充てがった経験に関しては、これが全く意味を持たない人もいる。
「これから一時間やるから本を読め」
「読書感想文は必須だから本を読め」
もちろんそれをきっかけとして本が好きになる人もいるだろう。
でももっと簡単で確実なのは、自分が選びとっていくということ。
本が常に身の回りにあって、本を読む人が当たり前に目の前にいる生活の中では、選択肢の中にそれが色濃く残るのは当然のことだろう。
「本を読め」と言うよりは、本を周りに置いたり大人自身が本を読んでいる方がより自然に子どもたちに届くのだ。即効性はないけれど。

 海外に行け、と口酸っぱくして言っても本人に行く気がない時は止めておいた方が良い。海外生活はそんなに甘いものではない。
 自分の意思で1年間という期間限定で行った私自身が、かなり辛く淋しい経験をしたから言える。そこで「このままで帰りたくない。何か掴んで帰りたい」と思ったのは、私自身の選択だったから。アルバイトで滞在費を稼いで、家族にプレゼンしてやっと行ったという過程があったからだ。
泣きながら、食事も喉を通らない毎日を過ごしても、お金を取られて電話代を滞納する様な貧しい生活を送っても、何日も眠れなくても、それでも日々を過ごしたのはその「自分で決めた」というベースがあったからだと思う。
 誰のせいにも出来ない。自分で選んだことだから、なんとかしたい。そう思った。心から。

人のせい

 そう、自分で決めることの大切さは、人のせいに出来ないところにあると思う。先生や親がテストの点や将来の進路について子どもを叱りつけたり厳しく接する様子は「厳しい」と判断されるかも知れない。それを「必要な厳しさ」「子どものため」などと言われることもある。しかし、本当の厳しさはもっと違う。

 その子が自ら選ぶ過程を見守ることこそが、親にとっても子どもにとっても試練。それがその子にとっての成功や幸せに繋がるかどうか、誰も知らない。ただ一つ言えることはそれが「本人が決めたこと」であるかどうか。
 後から「ほぅら、言っただろう」と言いたくなる様な結果が待っていても、それは親がマウントを取るためにある経験ではなく、その経験からまた学んで次に進むための大切な経験であるということも付け足しておこう。「ほらね」はただの大人の自己承認欲求。
 そこで折れた子どもの心をさらにへし折って再起不能にするか、心の港として羽を休ませ次のチャレンジへ繋ぐかは大人の考え方次第。

 我が子、我が生徒でありながら「ほら、お前が悪い」と言い切ってしまうことに、私は怖さを感じる。自分はちゃんと言ったんだからね、責任取らないよ。その繰り返しで、子どもたちはチャレンジすることや自分自身を信頼することから離れていく。思考停止が決定的になる。この連鎖を断ち切れるのは、そうでない大人の存在。よくテレビで見られる海外のスーパーコーチが「私がいるから、安心してトライしてごらん」「失敗からも学べることがあるから大丈夫だよ」と言うのを「いいな」と眺めるのは、子どもだけでなく大人も同じ。
 ただ決定的に違いを産み出せるのは大人は「いいな」で終わらせずに「自分もかくありたい」と望むこと。心がけること。学び取ること。そこを他人事としてただ羨むのか、自分の道標とするのか、その差は大きい。

 大人が受け止める役割を放棄して「うちの子は〜」とあたかもその子自身が自分勝手に悪い選択をしているかの様に振る舞うことを止めて、見守り受け止め一緒に考える立場になれるかどうか、そこにも格差は隠れていると思う。

考え方格差

 多くの子どもたちと関わっていると、ミラクルの様なことに遭遇することがたくさんある。そのミラクルはほとんどが「見守り」の中で生まれると言っても過言ではない。

 ある子は本を読むことが大好き。あまりにも集中するから親が心配する程。かと思ったら、本を読んで欲しくて毎日図書館に連れて行っても本に見向きもしない子もいる。
 それから何十年も経った後、大人になったその子が偶然手に取った本の面白さに取り憑かれた様に本に没頭していく...でもその場にもう彼の両親はいない。そんなこともある。
「知識、想像はいつか息子を助けてくれる」と信じた親が本のある環境を作った結果その子は興味を持たなかったけれど、染み込んだ思い出が必要な時にふっと現れて本当にその子を助ける時がくる。でもその時に親はいない。これはほんの一例だが、そんなことはたくさん起こっている。

 大人になった時、我が子が仕事もうまくいかず人ともなかなかコミュニケーションが取れない、苦しい時に何か癒し励ましてくれるものがそばにあったら…そこまで見越して親や先生は子どもたちに何かを残そうとする。
 それが時に本、映画、音楽…形は違えど子どもたちの中に何か豊かな思い出を残すことで、それがいつか自分の手を離れた子どもたちを支えてくれる。

 教育とはそういうものだと思う

 今自分の目の前で100点を取ることや、誰もが羨む学校に進学すること、コンクールに入賞する程の腕前を誇ること、それは親や指導者ではなく子ども自身の願い。親は指導者は、そこから少し距離を置いて子どもたちのチャレンジを励まし、見守り、心をサポートする立場でありたい。

 子どもの人生に自分の人生を重ねて重いものを背負わせるのではなく、今新しい時代に船出しようとする我が子に、いつか心が居場所を失っても自分の代わりにその子を支える何かを残したい。そんな思いで、温かく心に注ぐもの、それが教育。

 そのゴールはその時々の価値観で変わっていく。どんな波がくるかは誰にもわからない。荒波に漕ぎ出でる心のエネルギーを残すことこそが教育。
そして教育格差は、教育に対する考え方そのものだ、と私は思う。

 


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なみお
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