ブログ180808

欲望に忠実な世界がくる ~民俗学的に考える現在~

 数年前から、書店で民俗学に関わる本が置かれているのを見かけることが、多くなった気がする。

 漫画『不思議の国のバード』は、明治時代の日本を旅した冒険家、イザベラ・バードの話で、西洋の価値観=現代日本に近い価値観から、当時の日本を見る作品。バードが目にした当時の日本の地方には、民俗的な文化が色濃く残っていた。

 京極夏彦さんは、遠野物語を『えほん遠野物語』や『遠野物語remix』など、絵本や再話的な小説の形で様々に描いている。

 本じゃないけれど、先日見た映画『縄文にハマる人々』では、その名の通り、縄文にハマる人々が多く出てきた。

 ぼくが民俗学を知ったのは、大学の一般教養の授業でだから、それ以前にも、意識していなかっただけで、民俗学関連の本は書店に多く並んでいたのかもしれない。どちらにしても、民俗学には、現代日本人の関心をくすぐるものがあるんだろうな、とは思っていて。

 じゃあ、今の人は、過去の社会や民俗学的知見の、何に惹かれるのか。

 そのことについて考えていて思ったのが、これから、欲望に忠実な世界がくるんじゃないか、ということで。

*     *     *

1. 現代社会と過去の社会の、相違点と類似点

 今の社会で、民俗学が関心を集めているということは、先住民族的な社会に、何かしらの憧れを抱いている、ということだと思う。それは、実際にそんな社会で暮らしたい、という憧れから、祖父母の家を思い出すようなノスタルジックな憧れ、暮らす場所としてではない物語的な場所への憧れまで、いろんな形だろうけれど。

 一つの憧れの形として、ぼくが初めて文化人類学、民俗学について授業で習った時のことを書いてみたい。

 ぼくが大学の一般教養の授業で初めて知った際、一番驚いたのは、先住民族の社会と現代社会の、性に対する考え方の違いだった。明治以降の日本社会は、性的なものに対するタブーが激しい。それは、良くないもの、いやらしいもの、少なくとも秘すべきものと考えられてきた。圧倒的にネガティブに扱われてきた。がしかし。先住民族の社会では、性的なものはオープンに扱われている場合も多く、さらに多くの場合、それは生命力の象徴として、素晴らしいもの、神秘的なもの、ポジティブなものとして扱われる。

 先住民族的社会は、古来の人間社会の在り方を保つものとして考えられている。つまり、過去の社会から現代の社会になるにしたがって、性は肯定的な扱いから否定的な扱いへと変化してきたと言っていいと思う。

 ぼく、それまでタブーとされていたもの、隠されていたもの、性という原初的な欲求が、自由に、オープンに語られることに、憧れを抱いた。

 じゃあ、何故、性は隠されたのか? そこには、「規則」が大きく影響をしている。

 規則、規範の原初の形として、一つイメージされるのは、「神に従うこと」だと思う。神に従えば、救われる。神に忠実でないから、悪いことが起きる。「神の決まり」。これは、一神教で顕著だ。欲望を抑え込むことが、神に忠実なことであり、禁欲が、幸福をもたらす。欲を制限するのが、規則だ。

 一方で先住民族的社会は、アニミズムに根差した多神教的社会が多い。そこでは、禁欲は強いられない。

 この、規則の有無が、過去の社会と、現代社会の大きな違いとして挙げられると思っていて。法。社会規範。決まり。

 この違い、現代社会を規定していた決まりの効力、拘束力が、今の社会では、徐々に弱まってきている。インターネットの力によって。規則から解放され始めているという点で、現代社会は、先住民族的な社会と類似し始めている?

2. 先住民族的な社会の信仰

 じゃあ、一神教的な「縛り」の論理、規則の効力が弱まったら、これから世界はどこへ向かうのか。先住民的な社会と似てきた今の社会は、どうなるのか。

 当然、上で述べたような、隠されていたものが、自由に、オープンに語られるようになるはずだ。

 規則がインターネットによってなし崩し的になくなってきている現代の人は、徐々に似てきている先住民的社会に惹かれている。特に、近・現代で秘されていたものが、オープンに語り合えること、そうすることが自然であること、そんな先住民的社会に、憧れているのではないか。だから、これから、社会はもっと自由に、オープンになっていくのではないか。

 規則を生んだ「一神教」の反対、「多神教」における信仰について考えてみる。例えば、縄文の信仰。はっきり言って、縄文時代の信仰は、詳しく分かっていない。ただ、石の棒が、遺物として多く見つかっている。

 日本の中のお祭りで、巨石棒や大きな木の棒が、お神輿の代わりに道を行くものを、聞いたことがある人も多いと思う。言うまでもなく、それは、男根の象徴だ。岩手県遠野にも、巨石棒が祀ってある祠がある。

 ぼくは、これらの石棒=男根信仰の、来歴が語られているのを見たことがなかったけれど、中沢新一『精霊の王』で、それらが縄文時代の石棒=男根信仰に由来するものだと知った。男根信仰は、先住民的社会の信仰の、一形態だ。

 先住民的社会では、近・現代社会で長らくよろしくないものとされてきた性欲は、むしろ豊穣をもたらす重要な力だと考えられる。縄文時代で男根が信仰対象だったように。性は、それ自体が信仰の対象だった。

 それだけではなく、先日見た『縄文にハマる人々』では、縄文土器の渦巻き模様を、胎児の形を表したもの、勾玉と同じ由来のもの、生命に対する信仰を表したものだと考えていた。

 インターネットによって、今の社会から規制がどんどんなくなっていくと、社会はこういう、人間の原初的なもの、生命に忠実になるんじゃないか。生命の求めるところ、欲望に忠実な世界になるんじゃないか。

 現に今、エンタメ界には、「グルメもの」=食欲に訴える物語が氾濫している。性にまつわるエンタメも、多様な形で出現していると思う。女性ものAV。BL。

3. 「欲望に忠実な世界」はどんな世界か

 少し整理する。

 自由に、規則に形を抑制されないとき、人の目はどこに向くのか。近・現代の、規則に定められて、社会的地位や社会的指標=金、消費、物欲に向いていた目は、規則をすべて取り払ったら、何を見るのか。きっとそれは、自分たち自身であり、体の欲望だろう。

 その人間の自由な志向の一つの形を表していたのが、縄文の信仰だ。今、「縄文にハマる人々」が多いのは、縄文は、規則に縛られない、自由だからだろう。縄文の人々が求めたものは、今の人にも魅力を持つ。今の人は、規則から、自由になりかけている。

 じゃあ、これから来るであろう「欲望に忠実な世界」をは、どんな世界なのか。

 それは、犯罪が横行する無法地帯、ではない。(人を傷つける行為を取り締まるのは前提としてあるけれど。)欲望に忠実=犯罪が横行、という考えは、一神教的世界観に支配されたものの見方だと思う。欲望=悪いこと、と考えるから、欲望に忠実=犯罪、と考えることになる。

 「欲望に忠実な世界」になると、きっと、欲望の形が変わる。これまでの欲望は、規制されることで、形がゆがめられてきた。「食べてはいけない」と言われるものだからこそ、禁断の美味として意識されたり、「してはいけない」という行為が、最高の快楽をもたらすものとされたり。言うまでもなく、珍味=美味ではない。

 これまでの規制が変化すると、欲望が多様な形になる。「欲望に忠実な世界」の欲望は、多種多様すぎて、予測できない。

 一つだけ、そんな世界で生まれるものを、予測させるものが、過去にあった。ヒッピーだ。

 ヒッピー文化は、ベトナム戦争への反対から生まれた文化で、全ての規制から自由になろうとした。ドラッグ、セックス、ロックンロールを愛した。家を持たず、家族よりもう少し大きい共同体=コミューンを作り、一緒に住んだ。彼らの生活は、これからの世界での暮らしを、少し予感させる。

 ヒッピーの代名詞として、ラブ&ピースがある。彼らは、人々を愛する。犯罪の横行とは、イメージが真逆。ただ、彼らは、完全に成功したわけではない。ドラッグでの堕落なんかは、彼らの失敗の象徴だと思う。

 それでも、ヒッピー文化には、「自由」で「欲望に忠実」なのに「ラブ&ピース」を貫いていて、惹かれるところがある。もう少し、ヒッピー文化について調べたい、と思っていて。そういえば、60年代後半にヒッピー文化が世界で流行る前の50~60年代、日本では縄文文化が流行っていた。

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