親の感情の面倒を見る
大人とは?と問われてどんな答えが思い浮かびますか。
色々な答えがあると思いますし、色んな言い回しがあると思いますが個人的には、
自分の感情の面倒を、自分で見ることが出来る、ということが、
心理的に成熟しているか否か、の分かれ目の様な気がしています。
いっとき「友達の様な親子」「姉妹の様な母娘」などといった表現がメディアに目立った時期がありました。
仲良きことは良きこと、ですが、過ぎたる場合は疑問符が付きます。
メディアが面白おかしくキャッチーな取り上げ方をしたものを、真に受ける訳では無いのですが、
機能不全家庭を安易にポップに飾り付けている様な匂いがあって、好ましい感じは持てませんでした。
父親は父親、母親は母親、子供は子供の役割を果たすことで、家族が機能します。
銘々が役割を果たすことが出来ない時、その家庭は機能不全な状態です。
世に連れ、家族の在り方も変化するのは必然ですが、現時点に於いても、家族の機能や機能不全家庭の定義は、まだ大きく変わってはいない様に思います。
仲良き、友達の様な親子関係と、肉体的な虐待のある親子関係は、真逆の様に見えますが、
そこに心理的虐待は無いのか、という視点で見た時、両者のベクトルは同じと言えるのです。
母と娘がお揃いのファッションで連れ立ってカラオケに出掛けることが悪い、などとはこれっぽっちも思いませんが、
母親には母親の役目があり、娘には娘としての立ち位置があります。
もしも、この母親の心が未熟で、友達に話しをする様に、娘に対して愚痴や泣き言、誰かの悪口を話すとしたら、
その時点で、母親は母親の役目を降りています。
娘は娘としての立ち位置から外れています。
子供は当然のことながら、心も身体も未熟です。
未熟なので、自分の面倒を自分で見ることが出来ません。
成長するまでは、親が子供の面倒を見る役目を担っています。
友達同士の間柄は、基本的には横並びの関係性です。
悩みを打ち明けたり、打ち明けられたり、
面倒を見たり、見られたりすることで、友達としての関係性は保たれ、強まり、そこから人間関係を互いに学びます。
友達同士であっても、個性の違いから、力関係は発生しますが、基本的には横並びの関係です。
ところが、過ぎた仲良し母娘には、本来は役目や立ち位置があります。
本来は母が守り、娘が守られます。
娘は幼く、未熟で、まだ無力な存在です。
だから、守られなくては生きられません。
だから、母は守り、娘は守られるのです。
母親の心が親としての役目を果たせる程の成熟度が無かった時、
母親は娘と横並びの位置まで降りようとします。
娘を守る役目を放棄します。
娘は、まだ未熟で無力ですが、親が守る役目を放棄したので、無理をして、背伸びをして、上を目指して登ります。
母親は役目を放棄して下に降りるのですから、楽をしています。
娘は無理をして、背伸びをして上に登るのですから、苦しいのです。
横並びは、母娘の関係性に於いては、母親が楽をして、娘が苦しむ状態です。
母親は楽になりたくて下に降り、娘は背伸びして上を目指すうちに、
いつしか母娘の位置は逆転します。
母親が娘に愚痴、泣き言、誰かの悪口を言うことは、
親が自分の感情の面倒を、娘に見させている状態です。
つまり、母親は親の役割を放棄し、守ってもらう側に回り、
娘は守ってもらうことが出来ないばかりか、背伸びをして、親を守る側に立たされます。
この時点で、親子の役割は逆転していて、
この家庭は機能不全家庭であり、
この状態は心理的虐待に他なりません。
この親子の在り方は、言うまでも無く、子供の心に大ダメージを与えます。
親は子供に感情の面倒を見てもらっている自覚はありません。
子供も親を守っている意識はありません。
親は与えているつもりで奪い、
子は与えられていると思い込み奪われます。
親も子も、気づくこと無く生きますが、子供は無理をして、爪先立って、背伸びをしています。
10年、20年、背伸びを続け、いつか限界を迎え、うずくまります。
親が子に身体的なダメージを与える虐待は、親が、抱える無価値感から目を背ける為に子供を犠牲にするものです。
世に言う毒親が子供を否定し、貶める精神的虐待も、親が、無価値感から目を逸らす為に子供を犠牲にします。
過ぎた仲良し母娘も、子供を犠牲にして親が苦しみから逃れる在り方です。
現れ方は様々ですし、複合的に現れるのが常ですが、
どんな現れ方をしようとも、掘り下げたなら、その根は親が抱える無価値感に繋がっています。
そして犠牲になるのは、いつも無力な幼い子供です。
親も子も、気がつきません。
気がつき難いことだからこそ、
知ること、が大切だと感じます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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