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親は許さなくていい、そして憎み続けなくてもいい
自分の生きづらさに気がついて、
その生きづらさを手放したい、と思い、
自分と向き合い始めます。
長く苦しんだ末に、気がついたのです。
生きづらい人が、自分の苦しみが生きづらさなんだ、と気づくことはとても難しく、
難しいだけに、それは尊い気づき、と言えます。
生きづらい人は、ある日突然、生きづらくなった訳ではありません。
余程のレアケースを除いては、源はその人の幼少期にまで遡ります。
生まれ落ちた場所には愛が無かったのです。
愛が無いから、自分の存在をないがしろにされます。
その場所では、尊重されません。
そこでは、拒絶され、否定され、利用され、貶められるのです。
その人に非は無く、生まれ落ちた場所が、そういう場所だった、ということです。
何故、そこに愛は無かったのでしょうか。
その人の親もまた、愛の無い場所に生まれ育った人です。
だから、我が子を愛したくても、愛せないのです。
愛を知らない人、だからです。
その人は愛の無い場所に生まれ、愛を知らない親の下に育ち、生きづらい人になったのです。
生まれた時から苦しかったのです。
生まれた時から、それが当たり前、それが日常だったから、
自分が生きづらい、ということに、気がつくことが困難で、困難を越えて気づいたことは、それだけで充分尊いと、私は思います。
既に尊い気づき、と言えます。
生きづらさに気がついた人は、生きづらさを手放したい、と願います。
長く続いた苦しみから抜け出し、軽やかな気持ちで人生を歩みたい、と切望します。
意を決して、自分と向き合い、見たく無い心の傷と対峙します。
その時、尊い気づきを得たその人であっても、
意を決した筈のその人であっても、
見たく無い心の傷を前に、気づきの感覚が遠退き、決した筈の心が揺らぎます。
自分と向き合う、とは、自分の心の全てに触れる、ということです。
見たく無い、触れたく無い心の傷は、触れると痛みを放ちます。
耐えきれず、迷い込む道がふたつ、有ります。
ひとつめは、
「確かに親は自分を傷つけたが、あの頃の親には親の事情が有り、仕方が無い事だった」という落とし所に逃げ込んでしまう、道です。
痛みを放つ心の傷には、触れたくありません。
だから、ぼやかしたくなります。
ぼやかしたなら、親は仕方が無かった、という結論と、
自分は親を許した、という結末を迎え、
心の傷は痛みを放つことは無くなります。
後には、
仕方が無かった可哀想な親と、
親を許した優しい自分と、
傷が痛まない代わりに、相変わらず重苦しい生きづらさが残ります。
ふたつめの道は、
意を決して、自分と向き合い、心の傷が痛み、封印していた親への怒りを感じ、憎しみを覚えます。
あの時、こんな事を言われた、こんな酷い事をされた、親は「お前のためを思って」と言っていた、騙された。
怒りも、憎しみも、感じて当然です。
これまで、親の顔色を伺い、親の気持ちを優先して、自分の感情を全部閉じ込めて生きた事が、生きづらさの原因ですから、
生きづらさを手放す過程で必ず通る場所、と言えます。
その感情を感じ尽くして初めて、生きづらさを手放す、真の気づき、が近づきます。
ところが、堰を切ったように様に溢れ出す、怒りと憎しみに呑まれ、
その場所に立ち尽くしてしまう場合があります。
中には、親に怒りをぶつけることに、生涯を費す人すら在ります。
生きづらさを手放す行程は、自分を育て直す道のり、とも言い換えられます。
過酷な幼少期を生き抜いた人は、幼い日に心が凍り付き、成長の歩みを止めてしまっています。
生きづらさに気がついた日が、育て直しの始まりです。
気がついた後、迷い込み易いふたつの道は、
ひとつめは、親は可哀想、自分は優しい、という都合の良い落とし所に逃げ込んで、誰も傷まない様にする誤魔化しです。
ふたつめは、自分の内側と対峙する恐ろしさから逃げて、親を責めることに問題をすり替えています。
勿論、幼少期の過酷さを考えれば、誤魔化したくもなりますし、すり替えたくもなります。
しかし、生きづらさを手放すことは、育て直しでもあるのです。
自分の中の凍りついた子供の部分を溶かし、今の成長した大人の自分に統合します。
子供は言い逃れますし、すり替えます。
自分に責任を持てないのは、当然です。
子供なんですから。
大人は、本当は言い逃れたいことも、すり替えたいことも、沢山ありますが、堪えます。
堪えることが、責任を持つことだと知っているから、です。
責任を持つことが、自由に生きる必要条件だと大人は知っています。
過酷な幼少期を生き抜いた人は、無責任な子供時代が無かった人です。
いつも責任を取らされ、いつも責められた人です。
だから責任なんて懲り懲りなんです。
それでも誤魔化しと、すり替えを止めた時、
親は許さなくてもいい、
でも、憎まなくてもいい、
自分の心も、自分の人生も、
全部自分のものだから、
親は親、自分は自分、
そう思えます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム