他人の視線に呑まれる事と、自分を客観視する事
自分を客観視する、とよく耳にします。
その効果は主に、冷静になる事が出来る、と誰もがなんとなく理解している、と思っています。
しかし、自分を客観的に見るつもりで、取り囲む他人の目に自分がどう映っているか、に執らわれてしまう人は多い様に感じています。
他人から見た自分に執らわれる、という事は、
他人に合わせる事、
他人に譲る事、
他人に呑まれる事、
です。
他人に合わせたり、譲ったりという事は、大切な事ですが、
それは先ず、自分、という存在がしっかりと担保された上での事です。
心の中は、自分の領域、なのです。
その本来、他者がおいそれと侵してはならない領域に、
他者の目線を意識し、優先した時点で、自ら他者を招き入れている事になります。
自分を客観視する、ということは、もう一人の自分の目線で、外から自分を見る、という事であって、
他者の目線から自分を見る事とは、正反対の事です。
機能不全家庭に育った人は、生まれた時から、親の目線に立つことを求められ続けた人です。
親の顔色を伺って、親の感情を優先し、
心の中から、自分を感情を消す事を強要されて育ちました。
親の感情を優先し、自分の感情を消す、という事は、
本来、他者が踏み入ってはならない心を、他者に明け渡しなさい、ということなのです。
その感覚に慣れ親しんだ人が、学校や職場で、プレッシャーの掛かる局面を迎えて、
自分に、落ち着け、落ち着けと声を掛ける際、
自分を、もう一人の自分の目線から見る筈が、
他者から見た自分に執らわれて、結果、他者から心を乗っ取られ、自分を見失います。
落ち着かなくては、と強く思う程に、他者の目に自分がどう映るのか、に呑み込まれます。
機能不全家庭に育った人は、自分の感情を放棄して、親の感情を優先した時のみ、受け容れられるという、条件付きの受け容れが当たり前の環境しか知りません。
自分の感情を捨てる事が、良い事、で、自分の感情を優先するなどということは、悪い事、です。
その環境に育つと、確かな【自分】という意識は、小さく頼りないまま、育ちません。
だから後に、学校や会社で、窮地に立った時、落ち着く為に、自分を客観視しようとしても、
小さく頼りない【自分】しか居らず、もう一人の自分も頼りなく、【自分】が見つからないのです。
だから、他者の目線を頼ります。
他者の目線に立つことには、熟練していますから、抵抗は無いのですが、それでは、客観視、する事は出来ません。
自分の感情を、肯定的に無条件に受け容れられる環境に育った、健やかな心を持つ人であっても、
完全無欠の、確かな【自分】という意識、を持つ人はいません。
穴もあれば、欠けもあります。
だから、自分を客観視する事に失敗は有るのです。
ただし、健やかな心の【自分】は、育っています。
窮地を迎えた時に、客観視、出来なかった経験は、【自分】を更に育てます。
経験は、【自分】の上に積み上がるのです。
【自分】が育っていない人は、トライ・アンド・エラーが経験として積み上がりません。
経験が積み上がる【自分】が、あまりにも小さく、頼りないからです。
【自分】が育っていない人が、その事を認識する事は、易しく無いのですが、
どうにも他人の目が気になって仕方が無い、ならば、
それは、大きな手掛かりかも知れません。
【自分】を育て直すことは、
いつでも、何歳でも出来ます。
知ることが全てではありませんが、
知ることが、
全ての始まりだと、思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム