不幸を投げ捨てた人の幸せは少し濃い
人が世界を見る時に、掛けるメガネの色は幼少期に決まります。
愛情を惜しみなく注がれ、尊重され、肯定的に受け容れられる環境に育った人は、
幸せ色のレンズの入ったメガネを掛けます。
その人の人生にも、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、様々な望まない出来事は起こります。
しかし、幸せ色のレンズを通して見る困難は、絶望の景色では無いのです。
見える景色は、乗り越えるべき試練です。
ここが踏ん張りどころ、という景色が拡がります。
生まれてからずっと、拒否され、否定的に扱われる環境に育つ人もいます。
その人が掛けるメガネには不幸色のレンズが入っています。
不幸色のレンズを通して見る世界は、困難、苦難、絶望に満ちています。
その人の人生にも、楽しいこと、嬉しいことも起こります。
優しい人も現れます。
でも、その人は楽しいことが他人事に思え、嬉しいことに居心地の悪さを感じます。
優しい人の優しさが見えません。
不幸色のメガネを掛けているから、です。
掛けるメガネの色は、幼い頃に一旦決まるのですが、
このメガネは嫌だ、と思えばいつだって掛け直すことは出来ます。
掛け直すには、ハードルが二つあります。
先ず最初のハードルは、自分のメガネには世の中を不幸色に映すレンズが入っている、と知ることです。
物心ついた頃には、不幸色のメガネを掛けていました。
だから、世の中が辛いのも、苦しいのも、悲しいのも、当たり前なのです。
一度でも、幸せ色のメガネを掛けたことがあるのなら、
不幸色のメガネは嫌だ、幸せになりたい、と思うでしょう。
しかし、一度も幸せ色のメガネを掛けたことが無ければ、
幸せな世界を見ていたい、とは思いようがありません。
しかも、不幸色のメガネを掛けさせた親は、「これは幸せ色のメガネだよ」と事あるごとに呪文の様に繰り返し言うのです。
「お前の為を思ってこのメガネを掛けさせた」と言うのです。
物心ついた頃には、不幸色に染まった世界だけを見て、
メガネを掛けさせた親は、これが幸せな景色だ、と言い、
そう信じて今日まで歩んで来たのです。
その嘘に気づくことは、とても難しいことです。
次のハードルは、このメガネはいらない、と不幸色のメガネを投げ捨てること、です。
ずっと不幸色のメガネを掛けて世の中を見て来たのです。
メガネを外したことが無いのです。
慣れ親しんだメガネを投げ捨ててしまったら、何も見えなくなるのではないか、
自分には何も残らず、自分は無くなってしまうのではないか、
とても怖くなります。
最初のハードルを越え、自分が掛けているのは不幸色のメガネだ、と判っても尚、メガネを投げ捨てることが出来ない人も少なくありません。
無理も無いことです。
一つ目のハードルを越えた時点で、とてつもないことです。
誰にも解ってもらえず、誰も教えてくれない中で、心の奥底に燻る幸せになりたい、という小さな灯りを頼りに、自分で探り、自分で手繰り、自分で辿り着いたのです。
気づいたその事が、既に尊い、と私は思います。
その、尊い気づきに辿り着いた人ならば、不幸を投げ捨てることさえも、やってのけるのは容易い、と信じます。
人の生き方や人生に、良し悪しは無い、と言います。
不幸から目を背けて生きるのも、
不幸を知って尚、そこに立ち続けることも、
そこに、良いも悪いも無い筈です。
しかし私は、
不幸色のメガネを投げ捨てた人が、手にする
メガネで見る景色は、
幸せ色の彩度が鮮やかなことを、知っています。
だから、
真実に辿り着いたなら次は、
鮮やかな幸せ色に包まれて欲しい、
そう願ってしまうのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム