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「弱さ」が見えたっていいや、と思える「強さ」
かつて責められて育った人は、自分の弱さ、を隠します。
弱いと責められる、と思い込んでいるからです。
食物連鎖の下位の生き物が、怪我をしても痛い素振りを見せないのは、弱っていると天敵に悟られたら捕食される運命だから、です。
責められて育った人は、それとよく似ている、と思うのです。
食物連鎖の下位に在る生き物は、例外は有るものの、押し並べて繁殖力が強く、一度の出産で多くの子供を産み落とします。
天敵に捕食されることは、織り込み済みの生命だから、子供を沢山産みますし、弱った様子を悟られない様にするのです。
私達、人間に天敵は居ません。
それなのに、食物連鎖の下層の生き物の様に、弱さを見せないのは、
圧倒的な力の差がある存在から、徹底的に責められたからです。
責められた時、辛かったし、苦しかったし、悔しかったのです。
でも、それを表現することは許されず、辛さ、苦しさ、悔しさを全部飲み込んで、その人は生き抜きました。
幼少期、幼い子供は守られるべき存在です。
守るのは親の役目です。
子供は徹底的に無力で、親は圧倒的に強いのですから、子は親を慕い、親は子を守る仕組みになっている筈なのです。
ところが、親が無価値感に苛まれる人であると、
慕う我が子を、絶対服従の、自分を無条件で受け容れる存在、と捉えてしまいます。
その親はそれ程、無価値感に追い立てられています。
追い立てられているから、本来守るべき我が子を、責め立ててしまいます。
親と子は圧倒的な力の差があり、強い方が守るべき存在を、絶対服従の存在と見誤ったなら、
そのパワーバランスの中では、もはや強者は天敵になってしまいます。
だから、弱さは見せられない、訳です。
親が本来の役目である、愛し、守る役目を果たし、
子供は慕い尽くすことが出来たなら、
その子は、自分の弱さを恥じませんし、隠しません。
親子関係とは、そういった温かさが通う関係性だと思うのです。
親も人間です。
子育てに於いて沢山失敗します。
時に至らず、時に踏み越え、ぶつかり、転んで、悩みます。
子育てに正解は無い、と考えます。
ただ親に、愛があり、守る役目を忘れなければ、関係性に温かさは通います。
それだけで充分だと思うんです。
温かさが通う親子関係であれば、親の至らなさで、子供が傷ついたとしても、子供の心に出来る傷は、ほんのかすり傷です。
かすり傷は温かい親子関係に包まれることで、その子の個性になります。
かすり傷の無い子など居ません。
言い換えれば、どの子にも個性があります。
健やかだけれども、少し慌てん坊、
健やかだけれども、ちょっと怒りん坊、
健やかだけれども、ちょっぴり怖がり、
そんな個性を、温かい親子関係に抱かれた子は、
恥じることも、隠すことも、嫌うことも無いのです。
「弱いけど、ま、いいか」とおおらかに捉えます。
結果として、
弱さを認めること、は、
おおらかさ、を生み、
それは、強さ、とも言えると思います。
生まれ落ちた場所、育った環境によって、
おおらかさ、が手に入らなかった人、
弱さを認める強さ、が無い人、
どうか、そのことを悔いたり、恥じたり、嫌わないで下さい。
おおらかでないこと、
弱さを認める強さが無いこと、
それが個性です。
逆説的ではありますが、
追い求めることを止めて、
そのまま全部受け容れることが、
個性をつくり、
個性ある自分は強くなっている証し、です。
いつの間にか、
「弱さが見えたっていいや」
と思える様にきっとなります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム