あまりにも一人ぼっちを怖がり過ぎる人が多い様に思ってます。
その結果、気が合わない人に囲まれて、気を使って、無理に合わせて、疲弊する人が多いのではないか、と思っています。
愛する家族がいて、何でも話せる友人が何人かいて、たまに会ってワイワイ騒ぐ仲間がいて、
それもいいでしょう。
しかし、万人に通ずる人付き合いの理想型は無い、と思っています。
人の容姿や性格が一人ひとり違う様に、多くの人と接することが幸せな人もいれば、
ひとりで居ることが、その人本来の在り方である人もいます。
平たく言うと、向き不向きがある、ということです。
友達は多い方が良い、皆と仲良く、という教育を受けた、
群れから外れると、即ち死を意味する、という恐怖は遺伝子的なもの、
ヒトは社会性の動物で、繋がっていたいのは、根源的な欲求、
単身者は短命、
ボケる、
異論はありません。
でも、人と繋がっていたいから、とにかく無理をして、苦しむぐらいなら、
いっそ一人ぼっちも良し、と思えた方が楽な人も、結構いると思うんです。
向き不向きが有る、ということは、
教育がどう、とか、
遺伝子がどう、とか、
根源的にどう、とか、
言っている場合では無く、
短命だったり、早くボケてしまうなら尚のこと、
限りある人生を、軽やかに歩いた方が賢明な様に、私には思えます。
向いていない、人と繋がることをわざわざ、人生の目的に据えるのは、自ら苦しみを迎えに行く様なもの、だと思うんです。
そんなことを言われても、一人ぼっちは怖い、一人は嫌だ、と思うなら、
教育の在り方や、遺伝子的、根源的な問題を考えるよりも、
自分の心の中を覗いて見た方が得策かも知れません。
ぼっち、が必要以上に怖い人は多分、自分のことが嫌いです。
本来、自分の一番の味方は、親兄弟でも、友達でも、恋人でも無く、
自分自身です。
自分自身が味方であってくれたら、気が合う訳でも無い人ならば、特に無理に繋がっていたい、という気持ちにはならない、と思います。
なんなら、世界中を敵に回しても、自分だけは、自分の味方ですし、
離れる心配は無く、いつも一緒ですから、これほど心強いことは無い訳です。
同調圧力や世論にも踊らされず、孤立では無く、孤独を自ら選ぶ、孤高の人もいます。
そんな人は、おそらく一番の味方は、自分自身なのだと推測します。
孤高であることが素晴らしい、ということでは無く、人其々であるべき人の在り方のひとつで、
ぼっち、が怖い人と対極に在るので、挙げました。
ぼっちが怖い人、が自分自身を嫌いになった原因は、
おそらくは、幼少期の親子関係まで遡ると思います。
親は、自分は無価値だ、という強い思い込みを持っている人で、
情緒は未成熟で、子供に充分な愛情を注ぐことが出来ないばかりか、
子供を、自分の強烈な無価値感から目を逸らす為の道具にしてしまいます。
子供の感情は否定し、自分の感情を押し付けます。
幼い子供は、親を慕います。
情緒が未熟な親には、自分を慕って止まない我が子が、絶対服従の存在に見えてしまいます。
子供は、感情を否定され、拒絶される毎日を過ごすうちに、
自分の感情は悪いもの、と思う様になります。
そんな悪い感情を持たずにはいられない自分が、嫌いになってしまいます。
一番の味方である筈の、自分自身を自分が嫌ってしまいます。
一番の味方を失った人は、脅迫的に人との繋がりを欲します。
一番の味方を失って平気でいられる程、人は強くありません。
けれども、脅迫的に人との繋がりを求める人の、余裕の無さは、人を遠ざけてしまいます。
人が人と繋がりたい、と思うときは、相手の内面にポジティブな響きを感じ取った時です。
追われる様に切迫した人に、人は魅力を感じません。
一人ぼっちが怖い人は、外に繋がりを求める前に、
何をさておいても、自分自身を好きになることが、大切だと考えます。
自分自身を好きになれたなら、
心はポジティブな響きを奏でます。
その響きを聴きつける人も、
ポジティブな響きを奏でる人です。
豊かな人間関係を望むなら、
自分自身を好きになる、
それが唯一の方法だと思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム