気づいた母は強し尊し
我が子を虐待する親は、沢山います。
けれども、自分が虐待している、という事に気が付く親は、ほんの一握りです。
大半は、自分が虐待している、なんて夢にも思わず、
自分は愛情深い良い親だ、とすら思っている事が多い様に思います。
テレビで虐待に関するニュースを見ても、「自分の子供にあんな酷い事をする親がいるなんて信じられない」
と本気で思います。
そう思いながら、我が子に虐待するのですから、虐待、被虐待の関係性が親から子、子から孫へと世代間で連鎖するのも無理からぬ事です。
自分は虐待している、と気が付く親は、気が付いた時点で虐待することから離れる事が確約された、と言って良いと思うのです。
何故なら、そこに虐待がある理由は、親自身が抱える重大な無価値感や怒りなどのネガティブな感情から目を逸らす為、だからです。
目を逸らす為に虐待が有り、親自身が気が付くということは、目を逸らすのをやめて、自分の心と向き合い始めた、という事です。
親自身が幼い頃、責め苛まれる環境に育った筈です。
言ってみれば、責め苛まれるのが日常であり、その環境しか知らない訳です。
愛情を注がれ、尊重される幸せな環境を一日でも、一時間でも体験したのなら、
自分が身を置く責め苛まれる環境が如何にむごたらしいのか、分かる筈です。
親になり、自分がしている事が虐待である、と分かる筈なのです。
しかし、幸せな環境に触れたことが無ければ、
育った環境が、どんなにむごたらしいか、
自分の子育てが虐待なのか、
知り様が無いのです。
それにも拘わらず、親になり、子供と接する中で、尊い気づきに達し、
虐待の世界から抜け出す親がいるのです。
無から有を生み出す如く、です。
無理を道理に置き換えます。
どんなに過酷な幼少期を過ごし、
どんなに重大な無価値感を抱えていようとも、
親になったら、子育ては待った無しです。
逃げ場は無く、休むことも許されず、
子供と対峙するのです。
かつて責められて育った親は、
子供の笑顔が、
屈託の無い笑い声が、
子供らしくはしゃぐ姿が、
子供の幸せが、許せません。
抱える重大な無価値感が疼くのです。
自覚はありません。
意識の下の深い所で、かつて辛く苦しい幼少期を過ごさざるを得なかった親は、
子供の幸せに嫉妬します。
意識の下の疼きは、意識に載る頃には苛立ちや怒りに変わります。
その苛立ちや怒りから、何かがおかしい、と気が付く親がいます。
何かがおかしい、と思った時には、もう自分の内面と向き合っています。
目を逸らし続ける親は、自分と向き合う事は出来ません。
待った無し、逃げ場無し、のお母さんから話しを聞くと、
苦しみの大きさに圧倒されます。
かつて過酷な幼少期を過ごし、その人が母になり、また過酷な状況に置かれる不条理を感じずにはいられません。
しかし、本当に母は強し、です。
愛すべき我が子を愛せない。
苛立つ、怒りが湧く。
そこから辿り、手繰り、気づきます。
ネガティブをポジティブに、
マイナスをプラスに、
怒りを愛に、見事に変換します。
私は毒親でしょうか?
と尋ねるお母さんは、毒親ではありません。
自分に疑問を持ち、自分と既に向き合い始めているから、です。
望まない環境に育ち、
重大な生きづらさを抱えたにも拘わらず、
愛すべき存在との出逢いを契機に、
気づきを迎える母は、神々しい、と思わずにはいられません。
子供の生きづらさは、辿れば必ず、親の心に行き着きます。
親が自分と向き合い、自分を救うことが、子供を救うこと、です。
お母さんが心豊かであれば、
子供は躓いても転んでも、
きっと幸せの道を歩きます。
苦しみを踏み越え、
優しさに辿り着く母は強く、
その気づきは尊く、
その姿は神々しくさえある、
そう、感じずにはいられません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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