
退行を選ぶか、成長を選択するか
心理学で言う退行とは、
自分の中にある 受け入れがたい感情や欲求から、幼少期の精神状態(発達段階)に逆戻りすることで、 「子ども返り」や「赤ちゃん返り」と言われる現象、を指します。
欲求不満や葛藤に対処しようとする防衛機制です。
わかり易い例としては、
下に兄弟姉妹が生まれると、お兄ちゃん・お姉ちゃんになった幼児 が、発達的成長から一時的に逆戻りして、おねしょをしたり、ほ乳瓶で ミルクを要求したり“赤ちゃん返り”をすることがあります。
それが退行的な行為です。
例の場合、親の愛情を兄弟姉妹に取られた、という感情です。
まだ甘えていたい、まだ愛情が足りない、という愛情不足からの行動です。
退行はわかり易い現れ方ばかり、とは限りませんし、決して特別なことでは無く、多くの人が、退行的な心理状態に陥る、と言えます。
お店の店員さんに対して、人目もはばからず大声で怒鳴り散らす人、
他の車の運転が気に入らず、煽り運転に至る人、
など、日常のちょっとした事への過剰な反応の陰には退行欲求があります。
怒鳴り散らす人や煽り運転をする人は、幼児が、思い通りにいかない時に、拗ねて駄々をこねている状態です。
大人ですから、その場にひっくり返って足をバタバタさせる訳にはいかないので、怒鳴ったり煽ったりしています。
本人は自分が退行欲求に衝き動かされている、との自覚はありません。
本人はしごく真っ当な理由で、正しい方向に、怒りをぶつけている、と認識しています。
しかし、自分が怒鳴りつけている店員さんは、赤の他人で、
自分が煽っている車の運転者は、見ず知らずの人物です。
全く関係の無い人に、何かきっかけは有ったにしろ、場違いな激しい怒りをぶつけるのは、ある意味、八つ当たりに近い行為です。
でも、止められません。
事の大小は別にしても、縁もゆかりも無い人に、八つ当たり的に激しい怒りをぶつけるのは、
むしゃくしゃしたからやった、と供述する通り魔と同じ方向性の心の動きです。
幼少期の愛情不足に起因する退行欲求ですから、極めて幼児的で、独りよがりな心理状態と言う事が出来ます。
つまり退行欲求に衝き動かされる限り世の中は、腹が立つことばかりになってしまいます。
誰もわかってくれない、という思いに執らわれます。
この気持ちを理解してくれる訳が無い、と思いつめます。
どうせ自分なんて、というマインドに至ります。
退行欲求に衝き動かされる限り、見る世界はネガティブに満ちています。
退行欲求の産みの親は、愛情不足なのですから、見る世界がネガティブ色に染まるのは当然と言えば当然でもあります。
心のこと、を考えるうちに思ったことがあります。
心のこと、には沢山の入口があり、表現があり、解釈があります。
心理学の入口から入っても、精神医学の入口から入っても、哲学、宗教、自己啓発、スピリチュアル、どの入口から入っても、
どの表現に触れても、どんな解釈に至っても、
心のこと、は折り重なっている、と感じています。
私達は起きる出来事に、都度意味づけを施し、湧き上がる感情を選択して、見る世界、生きる世界を決めている、と言えます。
ポジティブを選ぶか、
ネガティブを選ぶか、
ということと、
成長欲求を選択するか、
退行欲求に衝き動かされるか、
ということは、
イコールで結んでも良いぐらいニアな関係性だと思うのです。
少し離れるかも知れませんが、
更には巷でよく言われる、
ステージ(次元)が変わる(上昇する)、ということさえも、
入口の違いや、ニュアンス、表現の差異は脇に置いても、
大きな意味で、折り重なっている、と感じています。
私達がどんな世界を見るか、どんな世界を生きるか、ということの選択権は、私達自身にあり、
ポジティブに生きるか、
ネガティブに生きるか、
成長欲求を選択するか、
退行欲求に執らわれるか、
次のステージに行くか、
とどまるか、
決めるのは、私達自身だ、と思います。
選ぶには、選択権は自分に有る、と知ることが先ず必要です。
次に、選択肢を知ることが必要です。
無意識にネガティブを選んでいるなら、ネガティブを意識のテーブルに載せること、です。
無意識に退行欲求に衝き動かされているならば、退行欲求を意識のテーブルに載せます。
無意識に選ぶこと、
オートマティックに衝き動かされること、を排除し、
意識のテーブルに並べます。
選ぶのも、決めるのも、自分自身、
見る世界は自分で選べます。
人生は自分で選ぶ、のです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム