愛の造花はもう、要らない
心のこと、は難解です。
とりわけ機能不全家庭がその舞台であれば、紐解くことは容易ではありません。
何故なら、機能不全家庭という家族の在り方は、健康的な家庭の在り方とは全く違っているからです。
世に言われる家族の常識は、機能不全家庭に通じる部分はほぼ有りません。
健康的な家庭の目的は、家族の安らぎであり、子供達が巣立つまでの安心、安全の巣であること、では無いでしょうか。
ところが、機能不全家庭の目的は、親が抱える無価値感から目を背ける為の場所であること、なのです。
健康的な家庭の親が、子供を守る意識を強く持っているのと同程度に、
機能不全家庭の親は、自分が抱える無価値感から目を背けることに躍起です。
家庭が存在する意味から、親の心情から、何から何まで、真逆に近いのです。
真逆なのに機能不全家庭の親は、健康的な家庭であるかの様につくろいます。
真逆なのにつくろうから、機能不全家庭には嘘と秘密がつきものです。
たとえは悪いですが、完璧なアリバイは疑わしいのと同じで、不健康な家族の実態を包み隠そうと、過剰に健康的な家庭であることを誇示します。
良き父、良き母、良き子供であるかの様に振る舞い、殊更に幸せな家族である、と誇示します。
世間に向かってどれだけ幸せな家族を誇って見せても、そこには埋められない矛盾が生じます。
幸せを誇示しても、そこには安心も安全も無く、有るのは不安と危険です。
埋まる筈が無いのです。
埋まる筈の無い矛盾を包み隠す存在が、子供です。
親は子供を虐待しても、それを愛だと言います。
子供はその親、その環境しか知らないので、虐待を愛だと教われば、そう信じ込みます。
かつて虐待された人の多くが、自分は惜しみなく愛された、と大人になっても信じ込んでいる所以です。
信じ込んだ人はどうなるでしょうか。
大切な存在を傷つける人になります。
大切な存在を信じる為に試す人になります。
やがて、その人が親になり、機能不全家庭は連鎖します。
難解なのは、述べた機能不全家庭の出来事は、意識と無意識の狭間に起きること、なのです。
子供は信じ込む、と言いました。
しかし、本当は心の奥底で、親が言う愛に疑いを持っています。
何かがおかしい、と感じているのです。
それでも、親の愛に疑いを持つことは、その子にとっては有ってはならないこと、です。
真実に自分が耐えられない、親も耐えられない、家族が成り立ちません。
だから、子供は意識と無意識の狭間に矛盾を閉じ込めます。
子供は矛盾を閉じ込めることで、家庭の嘘を隠し、家庭を守ります。
親は機能不全家庭が連鎖して今は、親ですが、
かつては虐待を受けた子供だったのです。
だから、心の奥底には親や家族や、子供や愛に、疑いを持っています。
意識と無意識の狭間で、です。
自分が子供を愛している、と意識の上では思っていても、心の奥の方では、自分が子供を都合よく、愛の名の下に利用していることを知っています。
子供を傷つけていることを知っているのです。
先に、アリバイ工作よろしく不健康な家庭の秘密を覆い隠す、と言いました。
アリバイ工作は、知っているからするのです。
どんなに取り繕っても、自分の愛が嘘だと気がついています。
機能不全家庭は嘘と秘密と、子供の犠牲の上に成り立っています。
そのことを、親も子も、意識と無意識の狭間で知っています。
親は、自分の卑劣さを認めることが出来ず、真実を、意識のテーブルから、はたき落とします。
子供は、自分が愛されていないということに耐えられず、真実を、意識のテーブルからはたき落とします。
はたき落とされた真実は、無意識のフロアに散らばります。
親子は真実をはたき落として、何も載っていない空虚なテーブルに、悲しい愛の造花を飾ります。
綺麗だね、本物だね、と口々に言うのです。
心の奥底では偽物と知りながら。
心のこと、とりわけ機能不全家庭で起きることは難解です。
悲しい連鎖を止めることと、自分自身が幸せに生きることは、イコールで結ばれています。
真実を見ることは怖くとも、
無意識のフロアに散らばった、
真実の欠片を拾い集めたら、
意識のテーブルにそっと置いて欲しく思います。
真実は思うほど怖く無く、きっと安堵を運んでくれると思います。
悲しい愛の造花は、
もう要りません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム