幸せな感情を選ぶ
身に降りかかる望まない、出来事や、
他者からの誹謗、中傷などをつぶさに拾い上げて、
不快な今、を過ごしていないでしょうか。
あんな嫌なことが起きたのだから、
あんな酷いことを言われたのだから、
今が不快になるのは仕方が無い、と思っていないでしょうか。
私達が制御出来るのは、自分の心だけ、です。
降りかかる出来事も、
他者の気持ちも、
私達にはコントロール出来ません。
逆に言うなら、どんな出来事に見舞われても、どんな心無い言葉を他者から浴びせられても、
自分の心は、自分の制御下にあるのですから、
外の事は放っておいて、幸せな感情を選択することは出来るのです。
更に言うなら、
あの人は優秀だ、それに比べて私は…、
あの人は美しい、それに引き換え私は…、
と、他者と比べて、無価値感を味わっていないでしょうか。
これも、比べたり引き換えたりする必要は全く無い訳です。
他人の優秀さや他人が美しいことと、自分の価値は、無関係です。
外の事を、自分の価値と結びつける事によって、不快な今、を自ら創り出している、と言えます。
望まない出来事が起きたこと、
他者から酷い言葉をぶつけられたこと、
他者が優秀であること、
他者が美しいこと、
全部、外の事であって、自分の価値とも、自分の感情とも本来、無関係なのです。
あるのは、心地良い今、を択ぶのか、不快な今、を選択するのか、の違いなのです。
今、を創っているのは、外の事、では無く、自分の選択、であると知ることは、軽やかに生きる為には、大切なことだと思っています。
勿論、場合によっては望まない出来事に振り回される事もありますし、
心無い他者に怒る事、
優秀な他者や、美しい他者に引け目を感じたり、嫉妬したり、という事が有っても構わないのです。
ただ、外の事と自分の価値は無関係であり、感情は自分が自由に選択しているという事を知った上で、
あえて不快な感情を選択している事を忘れなければ、
そうそう不快な感情に呑み込まれる事はありません。
怒ることは良くない、引け目を感じる事は良くない、嫉妬なんてもっての他だ、と自分の感情を抑え込んだり、無かったものにする事が、
自分の心を上手にコントロールする術だと思っている人が実に多いと感じています。
怒っても、引け目を感じても、嫉妬しても構わないんです。
ただ、その不快な感情は、自分が自由に選択したんだ、という事を忘れなければ、感情に呑み込まれる事は、そうは無い、と思っています。
幼い頃から、親の感情を優先しなくてはならない環境に育った人は、
親が望む感情以外、感じではならない、と思い込んでいます。
どんなに泣きたくても、親が自分に明るく笑うことを望んでいる、と察するや、お釣りが来る程に、事更に明るい笑顔を振りまく様な幼少期を過ごした為、
自分の感情を、許されない悪いもの、だとすら感じる様になってしまっています。
だから、心地よい今を自分自身が選び取って良い、などという感覚はありません。
場合によっては不快な今すら、選び取って良いとは、思いも寄りません。
感情は外の出来事や他者によって、もたらされる、と当たり前の様に感じています。
更には、自分の価値を自分自身が決定して良い、などとは思ってもいません。
他者から「アナタ間違ってますよ!」と強い口調で言われた時、
取り合わずにスルーして、自分の心を乱さずに、素早く心地よい今、を創り出す選択をしても良いですし、
自分は間違っていないのに、相手が勘違いしているだけだ、と思ったり、
相手が悪意を持って自分に敵意をぶつけている、と感じたら、
言い争う、という不快な今、を選択しても構わない訳です。
ただ、心地よい今、も、不快な今、も出来事や他者がもたらしているのでは無く、
出来事や他者の働きかけ、に対して、どんな感情を選択し、どんな今、を創り出すのか、は自分の自由であることを知っておく事は重要です。
先に触れた、親の感情を優先しなくてはならない環境に育った人が、
自分で感情を選択し、心地よい今や、不快な今を創り出しているのは、自分自身である、とは、
感覚として、全く解らないのは、無理もありません。
今記事の内容は、いつもの、生きづらさを手放す、という事からは、多少離れ、
どちらかと言うと、自分自身のメンタルをコントロールし、マネジメントする側面が強いかも知れませんが、
生きづらさを手放す道中で、必ず通り、必ず腑に落とす事柄です。
頭の片隅に置いておけば、
生きづらさを手放す際、
助けにはなれど、邪魔にはならない、
と思い、お話しさせて頂きました。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム