心のことを言葉に載せる
いつも「心」にまつわるお話しをさせて頂いてます。
特に、「生きづらさ」を手放すことについて、が話しの中心です。
自身が長い間「生きづらさ」を抱えて人生を歩き、そして「生きづらさ」を手放した、と確信を得た経緯をお話しさせて頂いてます。
「心」には、カタチがありません。
触れることも、見ることさえも出来ません。
数値化することも難しく、証明することも叶わない、と言えるでしょう。
この物質世界に現存する尺度では測れない事柄なのだ、と思っています。
更に言えば、触れることも、見ることも、数値化することも、証明することも、難しい「心」は、その全てを言語化することも、不可能なのだと思います。
言葉に落とし込むことが難しい「心」のこと、ですが、
この物質世界で誰かに伝えようと思えば、それは言葉を使うしかありません。
全てを伝えることは叶わなくとも、その一部分、その近似値、その輪郭を共有することは可能であると信じています。
カタチが無く、言葉に載せることが難しい「心」は、
更に、一人ひとりが違っている、訳です。
「心」のことを伝えた時、ある人にとっては近似値であっても、もう一人には、全くかけ離れた話しだったりするのです。
記事の中で、度々「生きづらさに気がついて、その生きづらさを手放したいと願うのならば」と記すのは、
読む方が、生きづらさに気がついているのか、いないのか、によって、その人が立っている世界や、眺める景色が全く異なるからです。
そして、生きづらさに気がついたから、その人が心底、生きづらさを手放したい、と願うとは限らないからです。
気がついている人もいれば、気がついていない人もいて、
気がついたからと言って、必ずしも手放したいとは限らないのです。
受け取る側の見ている心の景色は一人ひとり違っています。
ある人には薬になっても、ある人には毒になる事すらあると感じています。
だから、読む方の一人ひとりにアジャストすることは出来なくても、必要な人に近似値を届けたくて、回りくどい表現になりがちです。
そして、生きづらさを手放そうと決意を固めた人は、
手放した人が優れていて、決意したにも拘わらず、足踏みしている自分は劣っている、という思考に陥りがちです。
「心」のことに、善悪、正誤、優劣は有りません。
生きづらさを手放そうと決意したにも拘わらず足踏みしている、と感じるならば、
それは、そういうタイミングだ、と言うことです。
つまり、生きづらさに気がついて、生きづらさを手放そうと決意して、足踏みをするタイミングと言うことなのです。
足踏み、と表現した時点で、先に進むことを前提とした話しだ、と解釈される危険性をはらみます。
この辺りも、「心」のことを言葉に載せる難しさを感じます。
「心」のことを全て、受け取る人に伝え切るには、感じたことを、そのまま受け取る人に投げかけることが出来なければ難しいのだと感じます。
その様なコミュニケーションの方法は有りませんから、私達は言葉に載せて思いや考え、情報を伝えます。
必要な人に、伝えるべき事柄の、出来る限りの近似値を届けられたらいい、と思っています。
その思いで、次の事を何度でもお伝えします。
生きづらさとは、自分を嫌いになった状態です。
自分を嫌いになったのは、言われ無き思い込みを心に貼り付けてしまったからです。
長く苦しんで来たとしても、思い込みは単なる思い込みに過ぎません。
思い込みは、剥がすことが出来るのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム