優れた子で在りなさい、でも私より劣った子で在りなさい
子供に起きた良き事を、親が我が身に起きた事の様に喜ぶ、
親子の情愛が織りなす景色の中でも、特に尊い情景なのではないか、と思うのです。
我が事の様に喜ぶ事が出来るには、親が子供を一個の独立した人、として感じていることが必要です。
親が子供という存在を「尊重」している、という素地が出来上がっていないと、
「我が事の様に」喜ぶ、では無く、「我が事を」喜ぶになってしまいます。
どういう場合か、というと、
親が子供を自分の所有物、として感じている場合、
親が子供を自分に従属する存在、と認識している場合、です。
その場合、子供という存在は、親の心の中から消し飛んで、
物理的には、親と子という二人なのに、親の心には、親一人とその従属物という、極めて独りよがりな心理的世界が拡がります。
所有物、従属物、誤解を恐れずに別の言い方をするならばつまり、装飾品です。
たとえば、賢いお子さんですね、と誰かから褒められたとします。
子供に独立した人格を認めていない親にとって、その褒め言葉は、
素敵な指輪ですね、
格好いいクルマですね、
立派なお宅ですね、
と同様の、賢いお子さんですね、です。
指輪やクルマや豪邸などの自分の虚栄心を満たす為のもの、
自分を飾ってくれるもの、
つまり装飾品、です。
どうして子供を尊重出来ず、飾り物の様に認識してしまうのでしょうか。
それはこの親が、心に重大な無価値感を抱えているから、です。
自分は無価値だ、と思い込んでいる人が親になると、何があっても自分を慕う我が子が、絶対服従の存在に見えてしまいます。
どんなことをしても、構わない存在に見えてしまうのです。
重大な無価値感を抱える人は、無価値感から目を背けることが、生きる上での最重要事項です。
だから、子供を自分の価値を上げる為の道具にしてしまいます。
要求は貪欲です。
賢くあれ、
優しくあれ、
明るくあれ、
強くあれ、
その場、その時、最高の子供であることを要求します。
いつもいつも最高の子供であり続ける事など出来ませんから、
親は出来ない子供に苛立ちます。
出来ない子供を責め立てます。
子供の心は傷だらけになってしまいます。
そして困ったことに、重大な無価値感を抱える親は、貪欲に優れた子供である事を求めながら、
同時に、自分よりも劣った存在であることを、子供に求めるのです。
親が求めた通りに、子供が優れた結果を出すと、それが面白く無いのです。
賢い子、と子供が褒められるのを望んでいるのでは無く、
賢い子の親、と自分が褒められたいのです。
自分が優れた子供になる事を求めておきながら、優れた結果を残した子供を妬ましく感じ、難癖をつける様に責め苛みます。
優れることを貪欲に求められ、
優れた結果を出せなければ責められ、
優れた結果を残しても責められるのです。
子供は本当にズタズタに傷つきます。
この様に、同時に相反する要求をされる状態は、「二重拘束」「ダブルバインド」と呼ばれます。
「北に行け」と「南に向え」の指示が同時に発せられます。
子供の心は引き裂かれます。
心に重大な無価値感を抱える親は、自分の心の有り様を正しく捉える事はありません。
子供の心を二つに裂きながら、
冒頭に触れた「子供に起きた良き事を我が事の様に喜ぶ親」だと思っています。
「子供に起きた良き事を我が事の様に喜ぶ親」は、子供を独立した人格として認識し、尊重する素地が出来ています。
そもそも対外的に、優れていることをこと更に誇示する必要を感じていません。
無価値感を抱えていないから、です。
対外的に誇示することよりも、我が子に起きた良き事を素直に喜びます。
そして独立した人格の我が子の事を、それこそ「我が事の様に」喜ぶのです。
子供を尊重する素地がしっかり出来ていれば、
多少、子供に起きた良き事を、他者に誇りたい、
と思う気持ちが有ったとしても、それは御愛嬌というものです。
私は、その御愛嬌まで含めて、親子の情愛が織りなす尊い情景だと思うのです。
第三者から見ても、その親が子供を尊重しているか、
それとも、所有物、従属物、装飾品と捉えているのか、は仲々分かるものではありません。
心のことは、人其々の心の中にしか無く、
他者がおいそれと触れるものでは無いなぁ、と常々思っています。
苦しみに気づくのも、自分と向き合うのも、
苦しむその人自身ですが、
自分について、親子について、心について、
目を向けるきっかけになれば、と思っています。
知って欲しいことが沢山有るのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム