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『懐かしい年への手紙』感想

noteロゴがあしらわれたメモパッドやボールペンをプレゼント!してほしいので読書感想文を投稿するぞ。OK? 

さあ『懐かしい年への手紙』を読む以前に『燃えあがる緑の木』を読んでいた愚かな俺としちゃあ、おおよその展開がわかっていたわけだ。燃えあがるで度々言及される「さきのギー兄さん」の事件。いつか説明してくれるのだろうと思いつつそのまま終わったあの時のグリーフといったら!以前「グランド・イリュージョン 見破られたトリック」を映画館で見た時、風采派手な知った風の男たちが出てきたまま説明なく終わり、あれえと思いポスターを確認したら背景にうっすら「2」と書かれていた時の絶望を思い出したよ。それでも燃えあがるに関しちゃ『同時代ゲーム』を読んでいてよかったと安堵するようでもあったのだが……      だが……
 本屋で買う本を決めるタイプなのでそういうミステイクはそこそこの頻度で起こる。しかし『燃えあがる緑の木』は新潮文庫、『懐かしい年への手紙』は講談社文芸文庫で販売されているわけで、文庫本派にいささか不親切じゃないかと憤慨したくもなるものさ。だってジョジョ7部と8部が別の棚で売られてるってのと一緒じゃないか。

『燃えあがる緑の木』の欠けたピースを埋めるべく『懐かしい年への手紙』を読み始めたが、結果的には『同時代ゲーム』に惹きつけられて評価した。懐かしいの中で「自己の死と再生の物語」を書くには機が熟していないとギー兄さんに言われたKが持ち出すのが『同時代ゲーム』のアイデア。
『懐かしい年への手紙』の最後、手紙の形式を意識してからの文体は『同時代ゲーム』と全く重なる。ギー兄さん/妹よ。あなた/きみは とオーヴァーラップした瞬間、俺はハジけた!ハジけまくった!

『同時代ゲーム』と『懐かしい年への手紙』はどちらも小説と手紙の書き方の話。ただし『同時代ゲーム』は手紙の書き方を書くことを通して、小説の書き方を書いている印象。そして俺は、この妹への手紙と小説の方法論こそ全く同じでも、実態は全く異なると『懐かしい年への手紙』を読んで確認するような感じだった。
 つまり、『同時代ゲーム』は手紙/小説の書きかたを書いているのに対し『懐かしい年への手紙』は手紙=小説の書き方を書いている。と俺は思うわけだ。『雨の木を聞く女たち』や『新しい人を目覚めよ』の一人の作家と向きあい、また語り手/書き手をKと設定するあの方法と同時代ゲームのやり方を組み合わせたような.....それが『懐かしい年への手紙』だと。だから、この方法で大江が総決算を試みるのに納得が言ったし、だからこそ『燃えあがる緑の木』の書き手がサッチャンの理由が気になってくる。思えば、俺が大江健三郎作品を読むのは、大江作品を読み終えた後『燃えあがる緑の木』を再読するためなのかもしれない。それにしちゃあまだまだ数が残っているなあ。

最後はストレートに感想らしく。生きるうえで肯定するのが難しいこと、論理ではどうやっても肯定できないことを肯定してくれる小説が好き。『デミアン』なんかはまさにその典型だったし、最後、いくつかの言葉で、全く説明なしに、肯定される人生の困難、あるいは人生そのもの。

威厳ある老人は、再びあらわれて声を発するはずだが、すべては循環する時のなかの、穏やかで真面目なゲームのようで、急ぎ駈け上ったわれわれは、あらためて大檜の島の青草の上に遊んでいよう……

『懐かしい年への手紙』より

 ダンテの神曲から「穏やかで真面目なゲームのよう」と結ばれる懐かしい年への手紙。燃えあがるで新たなギー兄さんが今際の少年を勇気づけようとする「一瞬よりはいくらか長く続く間」との言葉が、「循環する時のときの中の、穏やかで真面目なゲーム」に繋がる。ともすれば、順序を違えて読んだことも、まあ悪くなかったと思ってみたりするのさ。





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