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Vol. 197 芸人の政治的発言について思うこと 2/2

前記事の続き。

ひと昔前まで、芸の世界には「色が付く」という言葉があった。イメージが固定されるという事だ。あの人は○○、あの人は△△、といった様に…

昔の芸人はこの「色が付く」事を嫌った。
客を失う事になるからだ。分かりやすく言えばミギならばヒダリの客を、ヒダリならばミギの客を逃す。
また、何色かに染まること自体「粋」ではない。そのような風潮が強く、自身の政治信条などは公にしなかった。信条どころか贔屓のプロ野球チームすら明かさない。いつも飲み屋で野球談義をニコニコ聞いている師匠が実はゴリッゴリのタイガースファンだった…という例を私は知っている(ちなみに70代後半の師匠である)。
ひと昔前まではそれが芸の世界であり無色透明であるからこそ何者かを演じるその人の芸を客は純粋に楽しむ事が出来たのだ。


しかしここ10年余り、芸人の間でむしろ積極的に「色を付ける」ブームが起きているように思う。尚ここでの芸人とは「お笑い」「古典芸能(「噺家・色物など)」全般を指す。

これはSNSの台頭によるものだろう。いつでも・どこでも・誰でも自身の政治信条を気軽に発信出来る時代。それをメシの種にする芸人が増えた。〝芸人だけどこんなに賢い俺(私)〟 というやつだ。同時にそんな芸人を食いものにする政党・政治家・マスメディアが生まれた。あえて「食いもの」と言おう。

代表的な例を挙げるとウーマンラッシュアワー村本(以下敬称略)・おしどりマコ・ラサール石井などだ。その影響力を利用し、必要以上に持ち上げ露出させ、政権潰しの道具として使う。その醜悪さは見ての通りだ。  

落語の世界でも立川談四楼・立川雲水などの極左が生まれた。色物では反原発の恩田えりも有名だ。私は彼女と共通の知人がおり何度かプライベートで酒を飲んだが東日本大震災を機に縁を切った。言動が一変したからだ。

「社会風刺」というのはいつの時代にも存在する芸でありそれ自体悪いものではない。しかしそこにはクスリと笑える何かが無くてはいけない。相手憎しとただ罵倒するのは芸ではない。もちろん言い返す事が出来ない死者を殴り続けるなんぞ人としてやって良い事ではない。

冒頭に戻る。
昔の芸人は「色が付く」のを嫌った。
無色透明であるからこそ客は純粋にその芸を楽しむ事が出来た。私が知る限り、一流の芸人は今も色が付く言動をしていない。

もし食い詰めた芸人が「色」を出しそれがメシの種になるならいいだろう。それを好む客もいるだろうし利用したい団体もいる。win-winだ。
でもそれは「粋」じゃない。特に古典芸能を担う芸人にはやって欲しくないというのが本音だ。自分の好きだった噺家たちが次々〝アチラ側〟に行くのを、私はもう見たくない。




【猫ムスメより】
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