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『コロナ禍と出会い直す』を読んで

『コロナ禍と出会い直す』という本を読んだ。この本は人類学者の磯野真穂氏が2023年から朝日新聞デジタルで連載していた記事を元としておりコロナ禍で繰り広げられた「極端な対策」について振り返る(出会いなおす)内容となっている。
まず読み終えた感想として、コロナの初期対応について、当時のメディアや医療関係者の発言を冷静な視点で問い直していることは意義があり重要なことだと感じる。専門家や国がこうしろと言うから「ちょっとおかしいな」と思いながらも従ってしまうこと。もちろん当時は未知の感染症といった恐怖が増幅されたこともあったから、何か権威的なものに縋り、安心したい思いが私含めてあっただろうから、致し方ない点もあるとは思うが、出会い直すことによって、新たな感染症が発生した際に生かすことができると思う。
一方で2023年の連載であり、そこから「出会い直した」ものであるから、私がここ最近感じている「5類化以降の反動(揺り戻し)」については書かれていない点は残念に感じた。ということで私感も多分に含まれてしまうが、この本を読んだ上で私の五類化以降の感覚について書こうと思う。
結論から言ってしまうとマスクを外したとて日本人もコロナ感染症も変わってないし、国の対応はもっと悪くなったのではないかと思う。

和をもって極端となす

この本の中で筆者は「パニックを鎮静化させるためにとられた極端な対策が、長期にわたりダラダラと続く」傾向を「和をもって極端となす」と呼んでいる。極端な対策におかしいと感じても、和を保とうとしてしまう傾向のことである。筆者をフィールドワークに向かわせたのは、緊急事態においては多様性を重んじると言っている社会においても、命を大切にするという価値観がひとつになってしまうことへの危機感。それを受け入れてしまう世の中の流れ(緊急事態宣言を自ら望むことなど)への恐怖であった。

「コロナに罹らないことが命を大切にすることであるという、生をあまりに平坦化したものの見方と、それがあっさりと現実化する世の流れへの恐怖」

『コロナ禍と出会い直す』P220

筆者はコロナ禍の中でも、マスクの着用を個人の自由として運営を続けた「介護施設いろ葉」を、国や自治体から指導される対策を鵜呑みにするのではなく、自ら学び、考えて独自のシステムを構築し運営した好事例として挙げていた。認知症患者の中にはマスク姿の人を恐れる人も多く、そういった人たちのことを考えると、たしかにマスクや防護服で完全防備した姿で介護をすることが利用者にとっての幸せなのかと考えさせられる。

五類化以降の国の対応

「コロナ感染症で死亡した人は火葬に立ち会えない」といったニュースを覚えているだろうか。大切な人の死に立ち会えないといったところまで、一時期、この国はコロナを恐れていた。もちろんそれに対して「死体から感染することはないだろう」「マスクをして気を付けていれば大丈夫だろう」と思っている人も多かったと思うが、当時は葬儀会社も感染者を出して非難が出ることを恐れて、柔軟な対応ができなかったようである。告別式に会食などマスクなしで出来ることが普通になった今となっては遠い昔のように感じる。やはりこの感覚の違いは「コロナ感染症の五類化」を境目に変わっていったのだと思う。

五類化以降になって確かにマスクは個人の判断に委ねられるようになった(何か着用しなかったことで直接的な罰則があったわけでもないから、もともと個人の判断ではなかったか?とも思うが…)。ニュースでも感染者数が報道されなくなり、日常生活でコロナを意識することが少なくなっていった。本当に感染者数が減っていたり、コロナウイルスが弱毒化していたり、後遺症の治療法が確立されたのであれば、日常生活からコロナウイルスへの意識が減っていくこともいいことだと言えるだろう。
しかし現実は政府が五類に移行しますと言っただけでコロナウイルス自体が弱体化したわけではない。今も後遺症や重症化によって苦しめられている人がいても、元気な人にとっては対岸の火事、である。そういう背景を考えると「五類化に移行したぞ!今日からマスクはしなくていいんだ!やった~!」と手放しで喜ぶことはできない。むしろコロナ感染症に対しての意識の工程が国民を分断させる結果になってしまったのではないかとする思う。
しかも個人の判断に委ねるということは自己責任という考え方につながりやすい。国も「五類になったのでマスクは個人の自由だけど、ワクチンも治療薬もインフルエンザと同様3割は負担してもらいます」というのが方針であり、前のような手厚いサポートは得られない。
結果として感染者数が増えても「マスクは個人の自由」というイメージだけが先行して、マスク着用のお願いができず困っている施設も多いことだろう。コロナ禍以前もインフルエンザの流行期はニュースになっていたし、マスクをして予防しようとする人が多くみられた。五類化以降コロナの話題はニュースにならなくなったし、感染者数も積極的に調べなければたどり着くことができず、その結果今が流行期であるかも分からない。今年の7月末は東京の感染者が1日1万人を超え、感染のピークとなった。それでもニュースには出てこないからコロナが流行っていることに気が付く人は身の回りに感染者が出たか、自分が感染してから、ということになる。それだから7月末も8月頭も公共交通機関や人の多い施設内においてもマスクをしている人は、私が見た中ではせいぜい多くて3割程度であった。
本来であれば感染者数が減ってきたらマスクを外す、感染者数が増えてきたら予防のためにマスクをする。咳が出たり調子が悪ければマスクをするといった判断を各々が行わなければならない。しかし「コロナ感染者数が減ったから」ではなく、政府がマスクは個人の自由って言ったからマスクをしないのでは、正しいことを他人に委ねる、コロナ禍に蔓延した「みんなそうやっているからやる。上からそう言われたからやる。」といった考え方、「和をもって極端となす」空気感と何も変わっていない。

「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場があっても従わざるを得ない説」を見て

最後にこのブログを書いているとき、ちょうど水曜日のダウンタウンという番組で「コロナ対策、いまだに現役バリバリの現場があっても従わざるを得ない説」という番組が放映されていたので、そのことについて話そうと思う。
Twitterでは放送前のSNSでの予告の段階から荒れた印象があった。テレビ業界も五類化以降制限がなくなり、コロナ禍前と変わらず収録されるようになった。パーテーションを立てること、フェイスシールドをつけること、出演者同志が離れて座ること等々、今となってはやりすぎだったよねというのが大半の人の認識であり、あえてコロナ禍真っ只中の対策をリバイバルすることで、「あの時は何やってたんだろうな」と笑いながら見るのが多くの大衆的な視聴者の反応であろう。
放送局や番組側に批判をした人は、どのような人なのだろうか。多くは病院や高齢者施設など、今でも厳しい対策をしなければいけない場所に関わっている人のようであった。また親族や周りの人に重病の方がいて、なんとか感染させないように必死に対策をしているという人もいた。そういった人に対して番組側は特にコメントを出すこともなく、残念なことにそういった人たちが番組に対して抗議をするのに対してクレーマーだと叩く人も見られた。コロナに対する感覚は人によって差が大きく、五類化以降、行動が個人の判断に委ねられてからはその分断が決定的なものになってしまったと思う。(感情をダイレクトに吐露することができるインターネットでは特にそれが顕著にみられる)
とはいえ放送を見ずに批判はできないので、この番組を視聴した感想も記載しよう。私が見た限り著者の磯野氏はこの番組について触れていなかったが、人々の五類化の受け取り方という点で重要であると思う。

「およそ二年前には気にもしなかった飛沫防止フル装備」というナレーションとともに、マスクにフェイスシールドをした仕掛け人の番組スタッフが出てくる。そして打ち合わせの前に検温と消毒をする。打合せの際にはパーテーションを立てる。ワイプに出ている有名人も口々に「あったな~」と話している。番組で仕掛けられた対策についてはかなり誇張したものが多く、笑いが出たものについても「バリバリのときにもなかったもの」が多かった(水着になって全身を消毒する等々)ので、現在もしっかり対策をしている人を揶揄するような内容ではない印象であった。(しかしそういった人が見れば不快に思う点がなかったとは言えない。)
本書を手に取らない番組視聴者が、この番組を見た際に「やりすぎとされていた」対策を振り返り、今後新たな感染症に遭遇した際に生かす材料になるかもしれないという点では意義のあったものかもしれない。
一方で、マスク着用義務、検温と消毒等は病院等から求められれば従ったほうがよいし、五類化したからといってコロナ自体がなくなったわけではない。
この番組でも「極端な対策」をする理由として「製薬会社がスポンサーなので」とか「コロナ感染者を一人も出したことのない村なので」といった理由が使われ、それを聞いて有名人は怪しいと思いながらも「極端な対策」に従っていた。極端な対策に怪しいと思いながら従ってしまうのは本書で磯野氏が批判していたふるまいそのものではある。しかしもしコロナを恐れていなくてマスクをしなくても大丈夫だという考えで生活していたとしても、番組で出ていた「製薬会社や医療系の人だから仕方ないよね」とか「コロナ感染者を一人も出したことのない村の人だから仕方ないよね」といった、他者への理解というかコロナを恐れてしまう合理性のようなものを踏みにじったりはしないでほしいなと思う。人それぞれの受け取り方がある。どうか一生懸命マスクをしたり、アルコール消毒をしたりする人を笑いものにすることにはつながらないよう祈るばかりである。

最後に

この本を読んだり、その後も生きてきてやはり思うようになったことは「自分で考えて行動しよう」ということである。同調圧力や空気感といったこともあるし、テレビはコロナの感染者数が増えていても報道をしなくなった。
ただでさえ忙しく、慌ただしい社会の中で、自分から情報をキャッチするというのは余程の関心がないとしないかもしれない。それでも私はたまに感染者数をチェックして、すこしだけ対策を強めようとか、緩めてもいいかなとか思うようにしている。こんな長文を書いている人間だから自分でモノを考えたい、周りに流されたくない、という気持ちが強いのかもしれない。
自分で物事を考えて行動すること、それには時間的にも、肉体的にも、精神的にも余白(余裕)が必要だと思う。忙しくなったり、頭を使いすぎて考えるのが疲れたりすると自分の行動を他者に丸投げしてしまいたくなったりする。コロナの話をしていたのに、話がいつの間にか大きくなってしまった。とにかく、何とか踏みとどまっていられる余白、他者を非難せず各々の合理性を受け入れることのできる余白を大切に生きたいとこの本を読みながら考えた。

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