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「機能不全」な社会で育った僕は…①



前の記事では、
健全なコミュニケーションや愛情が伴わない「機能不全家族」で育った子どもは、独特の行動傾向を持つ「アダルトチルドレン」だという風に説明しました。


しかし、「機能不全」と言える環境というのは、
家族以外の環境でもなり得ることに気付いてしまいました。


今回も、自らの体験をもとに話していこうと思います。

ありのままに居れない時点で「機能不全」


学校に通っていた時の僕は、下記の記事にまとめて書いてあります。


※「"デジャヴ" を選んだ学生時代」 をご覧ください。

それと もう一つ。

※「合わせに"いかないといけない"ストレス」をご覧ください。


どちらの記事にも共通して言えるのは、

本音を伝えるべく意見や行動に移しても、
無視されて、仲間外れにされて、悪目立ちしていじめの標的になった、

という循環を、どこの学校でも経験してきた、ということです。



つまり、僕が通った学校は全て、
ありのままに意見や行動ができた上で、
安心・安全が継続的に得られる雰囲気ではありませんでした。

まさしく「機能不全」の環境です。



そういった中で僕は、
主に「優等生」or「空気」になる行動を選んで耐えてきました。


クラスメートに頼れないのであれば、「優等生」として先生が信頼してくれるようになろうと、ひたすら勉強を頑張った覚えがあります。


実際、良い結果を得ることで、
先生だけでなく親も褒めてくれて、次の課題もやり遂げられる自信が生まれる、という循環ができて、学校へ行く理由が保たれていました。


しかし、クラスメートとのコミュニケーションにおいては、
いつになっても成功体験が増えていかない毎日でした。


仲良くなれる手がかりすら考えつかない中で距離を詰めにいっても、
「最後はがっかりさせて恨まれるんだったら…」と、
自ら話しかけるのをやめたことがよくあります。

それに、メールやLINEのアドレスを教える勇気すら出てきませんでした。


仲が悪くなることで起こるいじめが 人生をも終わらせる凶器となり得る事実を ニュースでも実際の現場でもひたすら見せられた僕は、

「何か表現すると自分に良からぬことが降りかかってくる」という思いに駆られ、存在感を消すようにする癖がついてしまいました。


結局、
何も行動せず、物体として存在していない「空気」のように居るしかない、
そうした方がお互いにダメージを負わないから"比較的"楽だ、
という感覚がずっと続きました。

朝登校してから 夕方に下校するまで、一言も発しなかった日もありました。



これらとは別に、自分の意志を貫き通そうという思いで
「問題児」の行動を選んだこともあります。


勉強で先生との信頼を勝ち取ったとしても、
その先生が掲げる生徒像になれない部分に関しては反抗していました。


進路に関して意見が食い違ったこともありました。
ただ、その時だけは、

相手を負かすためなら本心をむき出しにすると共に どんな順序で話すべきかを前もって考え、
時にはありのままの感情を表しつつ、相手が折れるまで「問題児として」戦おうという気持ちで面談に臨んだ覚えもあります。

(結果、僕の望み通りになったので、あの場面での「問題児」の行動は良かったと思っています。)


クラスメートとの話し合いで 多数派の考えに共感できないと思った時にも
個人的な感情も入れて意見したこともあるのですが、
その意見を認めようとする反応は 無いことがほとんどでした。


物や人にあたるなどして一暴れしたくなったこともありました。
でも、信頼を重ねてきた人たちの機嫌をも損なう想像が頭をよぎって、
「なんとか気持ちを押し殺して「空気」or「優等生」の行動をとるべきだ」という意識がだんだん強くなって、
「結局 ここで暴れても意味がない」という結論のもと 行動しなかったことがたくさんあります。


そういった意味で僕は、
空気を読もうとしないし 融通もきかない、厄介で付き合いづらそうな人だったように思います。



このように 学校生活ではずっと、本音とは異なる言動をとり続けました。


先生方が親で、生徒が子ども、クラスメートが同年代のきょうだい
という風に考えれば、家庭と同じ関係性が見えてくるはずです。


威圧的な態度などの何らかの要因があるために、
本音を言っても聞いてもらえない、or 本音を言うと暴力をもらう代わりに安心・安全な居場所を奪われてしまう雰囲気。

これこそが「機能不全」と呼ぶにふさわしい環境です。



おとなしい子どもは良い子ではない


アダルトチルドレン特有の行動として「優等生」「空気」「問題児」と呼ばれるものを中心にここまで話してきたわけですが、


こういった傾向が、幼少期からあったことを思い出しました。



小学生になる前の僕は、保育園の先生やママ友たちから、
「おとなしくて良い子ですねぇ」とか、
「おりこうさんだね」
といった言葉で褒められる
経験をたくさんしてきました。


その場に合わせて感情を自らコントロールし、
他人を傷つけないような適切な行動を選ぶ能力が
あの歳で備わっている
ように見えて、
驚きのあまり出てきた言葉だったのかな、と今思います。


でもそれは、
言葉などの暴力に対する防衛反応だったように思います。


ありのままに感情を出した人が、不特定多数から精神的or身体的な暴力を受けてしまう、という考えのもと行動していたように思えてならないんです。


集団生活をしていると、自分の思い通りにいかないことが出てきて、それが欲求不満やストレスに変化して嫌な気持ちになるのは当たり前。

でも、他人と一緒に居続けていると、そういった思いばかりをしてしまい、
いつしか堪忍袋の緒が切れてしまう場合もあり得ます。


すると、言葉の発達が特に遅かった僕は、
その予兆すら見せないまま 急に泣き叫んで暴れ回ることしかできず、
無駄に周りの人を怖がらせていた情景が思い浮かびます。


もしそういった暴力を伴って他人を傷つけてしまったらば、ありのままに居られる環境が取り上げられてしまうかもしれない、


さらに、その一部始終が先生から親に伝達されるわけだから、
悪いことをすれば、周囲の人は皆 困った顔や怒った顔をしてくる上に、
自宅で父や母からさらなるマルトリートメントを受けても仕方がない、


そうなるのは嫌だ!

という風に ものごとのつながりを覚えてしまったように思うんです。


目に見える傷ができたのをきっかけに、ただでさえ口論が絶えなかった僕の家族は、
別居・離婚・一家離散といった家庭崩壊が あの歳で起きていたかもしれません。


そういうおそれをも感じさせる「機能不全家族」で育った僕は、


「自分が悪いことをしたら、直接的な被害者以外にも、先生や僕の親も悲しい気持ちにさせてしまって、その姿を見た僕も後で悲しい思いをする」、「とにかく怒られたくない」といった気持ちが先立って、


「先生の言うことを必ず守ろう、それ以外のことはやってはいけないんだ」
という意識が強く働いたために、


先生やママ友など大人が居る時は
「おりこうさんでおとなしい子ども」、いわゆる「優等生」になり、


複数人が居て成立する遊びでは、
事を荒立てないように、誰も嫌な気分にさせないように、という思いで、
「空気」のようにたたずんでいたように思います。


学生時代と全く同じ意識と行動で、まさしく "デジャヴ"です。



そういえば、この「おとなしい子ども」という表現、
「大人のような行動を見せる子ども」という意味で使っているみたいですけど…


これって、変ですよね?


いや、そう思わない方がおかしいですよ。


家庭の事情もあって 大人のふるまいばかりを実践し学んできた子どもが、
大人の年齢になってからその埋め合わせをするように 子どものふるまいをして良いわけではないのは 皆さん知っているはずです。


そういった世の中なのに、
「この子はおとなしいから放っておいても大丈夫」だとか、
「迷惑をかけない子でこの歳だし、ある程度家を空けても大丈夫」
なんて考えてしまう親は変だと思うべきです。


子どもは、どんな時でも親の愛情表現を必要としているんです。
そういう時に、大人と同等に扱ってしまうのは理にかなっていません。


それに、

「迷惑をかけたくない」のは大人側の勝手な思いにすぎません。
本来 そういう気持ちを子どもに背負わせ続ける必要はないはずです。


子どもというのは本来、節度を持たずに やかましく個人的な感情や意見を発するものです。

たとえそれによって誰かの迷惑になったとしても、
親や養育者が無条件の愛情で接することで、
子どもにとって安心・安全な環境が保たれるし、
健全で強固な信頼関係を築くことにつながっていくもののはずです。


福井大学の教授で小児精神科医の友田明美先生曰く、
スキンシップなど 愛情のやりとりが充分でない場合はネグレクト(育児放棄)にあたると断言しています。


また、そういう生活を長く続けていると、健全な愛情表現ができない大人に成長してしまう可能性を 著書で指摘しています。


そういった親元で育った子どものことを 医学の世界では
「アダルトチルドレン」と呼んだりしています。


「アダルトチルドレン」を日本語に訳すと「大人子ども」なわけで、

「機能不全」な環境で安心・安全を感じられる経験が少ないまま大人になった、という意味では同じことが言えます。



実際、僕の親は、
自らコミュニケーションをとるのが苦手な一人っ子を
「おとなしくしていられる子」とみなした
ことで、


共働きになってからは 僕一人でお留守番したことがたくさんありました。


(言っておきますが、親に対して何か悪いことをしたわけではありません。)


何のトラブルも起きなかったから良かったけども、
誰かに、というか、誰にも頼れない空間に居させられるのは、
愛情のキャッチボールを したくてもできない、
という意味では寂しい環境だった
ように思います。


「ゲームや宿題をやっててくれればいい」
「好きなことに没頭してくれればいい」
そういう問題ではないんだと言い返したいくらいです。


このように、学生時代の僕を大人のように扱ったことで、


愛情だとか人と関わることのメリットだとかを学ぶことができないまま大人になってしまいました。


むしろ 人間の怖いところだったり、人間社会のネガティブな面をたくさん学んで大人になりました。


その結果 僕は、

愛情はおろか 人と関わること自体怖いと感じる心と体で生きていく覚悟を持たないといけなくなりました。


と同時に、
共働きまでしないと子育てに必要なお金が稼げないこの社会に
一種の恨みを抱くようになってしまいました。



<②へ続く>

オーノ

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