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NAK &ひーちゃん
2023年9月1日 05:24
【差異】 誰もが差異を抱えて生きている。差異を抱えたまま人と繋がり、差異を抱えたまま己の人生を選択する。 私にとって、そうした差異から距離を置く時間はとても大切で、いつも穏やかで静かな場所を探している気がする。たとえば、この喫茶店のこの片隅の席。店内には穏やかな曲調のクラシックが抑えた音量で流れていて、空いているときは自分だけの時間に身を浸すことができる。 カランコロン。喫茶店のドアが開
2023年9月2日 06:57
【魂】 老人は閉じていた瞼を静かに開き、その何も映し得ない瞳で妻を見た。今日の風は柔らかいねと妻が言う。今日の風は柔らかいねと、老人は頭の中で何度も何度も反芻する。そして、居間のソファーから立ち上がると縁側に向かった。 縁側の籐椅子に腰を掛け、水音に耳を傾ける。竹筒から水鉢へと流れ落ちる水の音。この家を購入したときに、妻の希望で置いた水鉢だ。 2人でこの籐椅子に座り、この水音をBGMによく
2023年9月3日 18:15
【手紙】 あのときはどうもありがとう。君のおかげで動揺した僕は落ち着くことができた。帰国しなければ後悔していたに違いない。父はあれから2ヶ月頑張ったよ。短い期間ではあったけれど、僕は僕なりにできる限りのことを父にしてやれたと思う。 父は僕の帰国をとても喜んでくれた。悪いなと言いながら、嬉しさを隠し切れないんだ。母は大丈夫なのにと言いながら、何につけても僕を頼ってくれた。 父の死は穏やかなも
2023年9月4日 12:29
【書道教室】 「また明日来てもいい?」 「もちろん!待ってるね。」 茜は腰をかがめた私にぎゅっと抱きつくと、嬉しそうにスキップしながら帰っていった。 この書道教室に、丁寧なお辞儀をして帰っていく子どもは1人もいない。師匠はそういう儀礼的な所作が大嫌いなのだ。ひとつくらい型のない場があってもいいだろうと師匠は言う。 ここでは己の本質と向き合うことが求められる。そのためには本質を閉じ込
2023年9月5日 19:03
【時間】 炎の変幻自在な動きに、魂の波動が共鳴する。この波動が身体のあらゆる組織を振動させると、私は物質世界からの解放を感じて恍惚となる。 本当は、休日のたびにひとりキャンプがしたいのだけれど、女性のひとりキャンプは危険がつきものだ。危険を回避するために、キャンプ場で人の多い場所を選ぶなど本末転倒なので、休日のたびにとはいかないけれど、私はグランピングを利用している。 「これは夜にお勧め
2023年9月6日 12:28
【失明】 見えるはずの機能を持ったこの目は、僕に何も見せてはくれない。 最初は見えにくく感じる程度で、年のせいだろうと思っていた。ところが、ほんの1、2ヶ月で目に映るものが加速度的に霞んでいく。さすがにこれはおかしいと病院へ行くことにした。 複数の病院に診てもらったが、異常は見つからなかった。どの医師も首を捻るばかりだ。それでも視力は診てもらうたびに落ちていく。 視界のぼやけがひどく
2023年9月7日 23:03
【暗闇】 最近、暗闇と自分が同化しているような気分になることがある。この目はもう光すら感知できないのだ。昼も夜もなくなって時間の感覚が鈍くなり、体の境界線が薄ぼんやりとして、僕は空間と融和する。 「お父さん、私がお腹の中にいた頃のお母さんのこと、覚えてる?」 縁側でお茶をすすっていると、庭いじりをしている娘が話しかけてきた。 「ああ。いつも大きなお腹をそれは愛おしそうにさすっていた
2023年9月10日 20:06
【目覚め】 《目を開けて》 僕は閉じていた瞼をゆっくりと開く。眼下に見渡す限りどこまでも続く乾いた赤土と、葉もまばらな低木が点在する不毛の地が広がっている。あれからどれくらい経ったのだろう。ほんの一瞬前のようにも思えるし、何時間も前だったようにも思える。 僕は洞窟で目を閉じた。今はどこかの高台にいるようだ。遥か下方に360度見渡す限り不毛の地が広がっている。 なんだろう。何かがおかし
2023年9月11日 17:17
【境目に在る魂】 「気づいたかや。」 男は皮袋の水筒を差し出しながら、赤土の上に横たわる僕に向かって言った。 「思い出したんやねぇ。あっちのことを。」 僕は起き上がりながら皮袋の水筒を受け取り、ぐいと勢いよく水を飲んだ。 「でも、僕にはわからないんだ。どうやら僕は、あちらとこちらの両方にいるようだ。同時にね。」 「そうやねぇ。そういうもんやねぇ。」 男がさも当たり前のよ
2023年9月12日 08:44
【苦難】 境目に在る僕の波動は、深い愛と慈しみに満ちた始まりの者の波動にいつも共鳴している。境目に在る僕が始まりの者の波動とひとつになったとき、少年の内に在る僕は始まりの者の波動で満たされる。 あるとき僕は、唐突に貫かれるような激しい痛みに襲われた。僕はのたうち回りもだえ苦しみながら、とうとう僕にもこのときが訪れたのだと悟った。 境目には数え切れないほどの魂が在る。僕はここで、もだえ苦し
2023年9月13日 08:35
【動き始めた時間】 青年になった彼の時間は止まったままで、僕は相変わらず彼の脳にしがみ続けている。 最近彼は、大学図書館の裏庭で恋をした。彼女の柔らかな波動が彼の脳を心地よく愛撫する。 「今日の風は柔らかいね。」 「あの空の透けるような青が好き。」 「今日は本の文字が楽しげに踊っているように見えるの。」 「あの鳥の鳴き声は悲しげに聞こえるね。」 彼女の言葉はいつも彼の五
2023年9月13日 18:30
【魂の解放】 このところ、娘が言っていた〈魂の解放〉という言葉が頭にこびりついて離れない。娘は魂で妻と会話をしていたと言う。しかし、言葉を介さない会話だなんて、僕には理解ができないし想像すらできない。 娘は「これからよ」と軽い口調で言った。それは僕もいずれそれができるようになるということだろうか。しかし、妻はもういない。娘の話は、妻が生きていた頃の胎内での話なのだ。 僕は縁側に向かうと籐
2023年9月14日 12:04
【再会】 「今日はこの辺で、だな。」 稽古を終えた師匠はよいしょと立ち上がると、「あ、そうそう」と軽く手を打った。すたすたと小走りに部屋の隅にある飾り棚に向かうと、その引き出しから小さな紙切れを持ってくる。 「これこれ。」 師匠が差し出した紙には住所が書かれていた。見覚えのある筆跡だ。 「この間、悠が来たんだよ。」 「え? 悠さんが?」 「ああ。数ヶ月前に母親を亡くして