永井均先生の<私>の哲学を検討する その7
(永井均先生の<私>の哲学についての検討は一段落しました。今後何か考えるかも知れませんが、今はありません。)
前回の記事と同じく、永井先生の下の文章から引用します。
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/4008
(引用開始)
4 しかし、それらのもののうちある種類のものには心とか意識とか呼ばれるものがそなわっている、とはそもそもどういうことなのだろうか。
それはたとえば、すべてのカラスは黒いといったような仕方で、ある種類のすべてのものにそなわっているのだろうか。そうではないだろう。心や意識のそなわり方はそのような備わり方とは違う特徴を持つであろう。
すべてのカラスが黒いことは、カラス(黒さとは別の特徴によってカラスと分類されるもの)たちを見ていくことによってそうだと(そうでない場合はそうでないと)わかる。
しかし、心や意識は違う。そのように見ていっても、外から観察するだけではどんなによく観察しても、心や意識が本当にあるかどうかはわからない。そのうえ、内にもぐる方法はそもそも存在しない。
(引用終了)
人間はある言語を使って、話す、聞く、書く、読む、という活動をします。
これは、一般的には、自分の心の内容を他人の心に伝える活動である、と私(Naka)は想定します。
(自問自答の場合もあるにはありますが。)
どの言語ができたのも、膨大な数の人達の、膨大な期間に渡る、心の活動による、とNakaは想定します。
この2つの想定が正しいと仮定するならば、
永井先生が、著書を書き、講義をするのは、
他の人にも心があると、先生は認めていることになる、
とNakaは想定します。
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