永井均先生の<私>の哲学が分からない
永井先生の、<私>で表現している哲学が、どうにも理解できない。
まず、永井先生の思想の最初の部分を、森岡正博氏が解説した文を紹介します。
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『<私>をめぐる対決 独在性を哲学する』=永井均、森岡正博・著
明石書店
この本の14ページに、永井氏の<私>について、森岡氏が下記のよう説明しています。
第1部 この本で何が語られるのか
〈私〉とは何か
この世界にはたくさんの人間たちがいる。家族、友人、仕事仲間、見知らぬ多数の人々がいる。
それらの人間たちのなかで、私だけが、他の人たちとはまったく異なった仕方で存在している、というふうに思ったことはないだろうか。
たとえば、あそこを歩いている人を蜂が刺したとしても、私には直接の痛みは感じられない。
隣にいる友人を刺したとしても、私には直接の痛みは感じられない。
しかし私の身体を蜂が刺したら、強烈な痛みを感じることだろう。
(注)つまり、この世界にはたくさんの人間たちがいるけれども、蜂に刺されたら直接的な痛みを感じるような人間は、ここにひとりだけしかいないのである。
これは当たり前のように思われるかもしれないけれど、よく考えてみればとても不思議なことなのだ。どうして私はひとりだけ、そのような特別な在り方で存在しているのだろうか。
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大抵の人は、こう考えているでしょう。
1)自分の心は、自分の身体とくくりつけになっている。
自分の心が、他人の身体に乗り移ることはない。
2)自分の身体を叩かれたり、蜂に刺されると、痛いと感じる。
他人の身体が叩かれたり、蜂に刺されても、痛いと感じない。
(注)の 文を、次のようにすれば、
それは、大抵の人の考えになる。
この世界にはたくさんの人間たちがいるけれども、
ある人の身体が、蜂に刺されたら直接的な痛みを感じるような人間は、
そのある人だけしか、いないのである。
永井先生の思想は、注の文で表現されるとすれば、意味が分からない。
ある人の身体が蜂に刺されるとき、
その人だけが痛みを感じるのは、
ごくごく普通のことである。
だから、
「私だけが、他の人たちとはまったく異なった仕方で存在している」
ということは言えない、と思う。