永井均先生の<私>の哲学を検討する その6
(今までのタイトルは野暮と感じたので、変えました。内容は続きです。)
https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/4008
永井先生の上の記事の一部を引用します。
(引用開始)
4 しかし、それらのもののうちある種類のものには心とか意識とか呼ばれるものがそなわっている、とはそもそもどういうことなのだろうか。
それはたとえば、すべてのカラスは黒いといったような仕方で、ある種類のすべてのものにそなわっているのだろうか。そうではないだろう。心や意識のそなわり方はそのような備わり方とは違う特徴を持つであろう。
すべてのカラスが黒いことは、カラス(黒さとは別の特徴によってカラスと分類されるもの)たちを見ていくことによってそうだと(そうでない場合はそうでないと)わかる。
しかし、心や意識は違う。そのように見ていっても、外から観察するだけではどんなによく観察しても、心や意識が本当にあるかどうかはわからない。そのうえ、内にもぐる方法はそもそも存在しない。
(引用終了)
永井先生の上の説は、簡単に言えば、
すべてのカラスは黒いことは、見れば分かる。
心や意識が本当にあるかどうかは、観察では分からない。
しかし、上のように分けることは妥当であるかは問題があると、私(naka)は思う。
その理由を1つ示します。
鏡に写った自己像を、自分であると認識することは、鏡像認知と言われる。
人だけでなく、チンパンジーなども、その能力を獲得することが知られている。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/鏡像認知
これから、
ある種類の動物に、ある内面的な能力があることが、
見ることで直ちに分からない。
極めて綿密な観察を続けることによって分かる場合がある、
と言えます。