山西派形意拳 総合套路冒頭比較〜なぜ、中国武術では達人が生まれなくなってしまったのか
本日は天龍武術会の稽古に参加。
山西派形意拳の総合套路が本会稽古のひとつのスタンダードなのだが、石井敏先生より「冒頭部分を変えた」と伝えられた。
変えたというより、実際には”戻した”。
その冒頭部分の比較動画を作ってみたので、まずはご覧いただきたい。
最初が、馮正宝先生から伝えられた冒頭部分。
次が、石井敏先生がこれまで提案してきた冒頭部分だ。
崩拳の打ち方に違いがある。
昔から伝えられているのは馮正宝先生伝のものだが、石井先生は「もう少し実戦的な打ち方を提案したい」とお考えになり、2番目の打ち方を示した。
ご覧になってわかると思うが、2番目のほうが格段に難しい。
外形的にはまったく何の予備動作もなく、瞬時に半歩崩拳を打ち出す形になっている。
これをやるためには、内気を整える必要がある。
(そのため、動画でも時間がかかってしまっている)
よって「内気」が把握できないと、これはできない。
石井先生はこの2番目を提案していたのだが、これを1番目の、もともと昔から伝えられていた形に戻した、と今日おっしゃられた。
その理由は、
「みんな、これができないから」。
特に表演大会などでは、やりづらいやり方をやってしまうと、むしろ不利になってしまう。
そのため、やりやすい形に戻したとのこと。
私としては、複雑な気分だった。
この2番目の崩拳を「これはどうやったらできるのか?」と思い、この部分だけを集中的に稽古してきたからだ。
昔から伝えられているものを伝えるのが、正しいと言えば正しい。
しかし、より高度な提案を実現できる者がおらず、「表演大会のために戻した」と言われると、うーん…という気分になる。
昨日は、光岡英稔先生の稽古会に参加した。
韓氏意拳を成り立たせている歴史…形意拳、摔跤、八卦掌を一気に駆け抜けて意拳の所以を紐解くというハードな内容だったが、非常に実りの多い稽古だった。
そこで光岡先生がおっしゃった言葉が正鵠を射ていた。
「なぜ、中国武術では達人が生まれなくなってしまったのか?」
この問いの答えは、みんな薄々わかっているであろう。
試さなくなってしまったからだ。
試さずに、自分のやっていることが正しいか間違っているかわかるのなら、それこそ天才だ。
ただ、「試す」というのが、なんでもありでバチバチやるということかというと、それでいいとも限らない。
「何を試すのか」が一致しないまま「勝った者が勝ち」というだけの試し合いにしてしまうと、何も得るものがない可能性も高い。
いずれにせよ、自分のあり方は自分しか決められない。
甘く見て、適当にごまかしながら、カラ威張りして生きていくのも人生。
否定はしない。(関わりもしないが)
しかし、やはり私は「本当にそれでいいのか?」と問い続ける生き方をしたいものだ。