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走る、心を洗う。

走るという行為は、記憶を定着させるノリなのかもしれない。

走った時に感じた事は、心に深く刻まれている。

僕について


持久走

「だるいよな、一緒にゆっくり行こうぜ」

30年前の冬、中学校の持久走大会のスタートライン、不安な僕に友人は囁いた。少しの安堵とともに僕はスタートした。

70分後、彼ははるか前方でゴール。そこから遅れること数十分、最後の曲がり角を曲がったら前には誰も見えなかった。歩きながらの最下位。先に走り終えたクラスメート達は、寒がってもう教室に帰り始めていた。

僕にとって長距離走は、劣等感の象徴だった。


あれから30年、不惑を迎えた会社員として働く僕は、今走っている。

走り始めたきっかけはダイエットだった。体重が過去最高になり、手軽にできそうなランニングを嫌々始めた。最初は3キロから始めて少しずつ距離を伸ばした。5、7、9km。。。体重も順調に落ちて、ランニングが日常生活のルーティンとして自然に取り込まれていった。

走れる距離が伸びていく、という成長感もそれを後押ししていた。初めて10kmを走り切れた時の感動は今も覚えている。思い返せば、それはあの中学時代の持久走と同じ距離だった。

その後マラソンに出会った。

子供の頃、父がマラソン好きで、冬の週末はいつもテレビ中継を見ていた。2時間以上の間変わり映えしないTV画面をみて、子供の頃はその魅力がわからなかった。大嫌いだった持久走の長い版、としか当時は思っていなかった。

10kmが走れるようになった時、これ以上走るなら誰かとやった方が楽しそう、と思いランニングクラブの門を叩いた。多くの仲間ができ、その影響でマラソンという目標へ自然に導かれ、トレーニングとレースに明け暮れた。

フルマラソン(42.195キロ)を2時間台で完走するサブスリーを8回達成し、統計上は上位2−3%のランナーになった。

ここまでなら中学時代のリベンジ達成、というサクセスストーリーなのだがその先がある。

マラソンで大きな達成感を得た後、走る目標を見失い燃え尽きて走れなくなった。「マラソンで頑張って満足する結果は出せた。これ以上タイムを縮めるのはしんどい。じゃあなんで走るんだろう…?」 
この時期は心身ともに苦しかった。

走る理由

走れなくなりしばらく時間が過ぎ、幸運にも再び走り始めることができた。

それは自分の中で「走る理由」を見つめ直せたからだ。

「何で走るの?」はランナーが受けるFAQ(よくある質問)だ。
走ってない人から見れば、なぜ好き好んであんな苦しいことをするのかがわからないのだろう。中学時代の僕がまさにそうだった、気持ちはよくわかる。

「ダイエットしたい、体重維持したい、マラソンを完走したい、タイムを更新したい」と考えているランナーが多いのではないだろうか。
以前の僕もそれらが主な理由だった。体重が減っては喜び、タイムが縮んでは感動していた。

ただ一方で、これらはごく一側面でしかないとも感じていた。走るという行為はもっと深い意味合い持っているのではないか、と。

マラソンに熱中していた時はその問いに十分向き合わなかった。向き合わなくても、タイムが縮んでいくという強烈な達成感が、自分をさらに走らせてくれた。

そしてその後、燃え尽きた時に時間をおき、その問いに正対して考えた。なぜ走るのか、走る意味は何かと。

「心を洗う」が今の僕の走る理由だ。

体と心は繋がっている。体は洗って綺麗に保てるが、心は物理的に洗えない。心も放っておけば汚れ、それは感情や行動という形で表出する。弱さ、逃げ、利己、怒り、苛立ち、失望。

でも走ることで心の汚れも落とせる。汚れで覆われて見えていなかった心の芯の部分が見えてくる。強さ、忍耐、利他、優しさ、落ち着き、希望。

心を洗うことを一番身近にできるのが「走ること」だと思う。

一人でもできる、いつでもできる、お金もかからない。 

心を健全に保つことは今、重要なテーマだと思う。

走るという行為を通じてそれができるということを伝えたい。
そして今走ってない人にも走ってみたいと思ってもらいたい。

この10年で25,000Km(地球半周分位)走った。回数にして2500回以上。
その中から特に自分の心に影響を与えた4つの場面がある。それをここに書こうと思う。

走っていない人・走ってみたい人・以前走っていた人、がこれらを通じて走ることの意味を少しでも感じてもらえたら嬉しい。

4つとも数年以上前の場面だ。
けれど走りながら強く感じたことは、今でも色鮮やかに覚えている。

1: 東京都港区、東宮御所、紀伊国坂 -自分の可能性-


ランニングクラブのメンバーと木曜の夜に権太坂の交差点に集まり、年明けのマラソン本番に向けて走り込んでいる。皇居とは違い、東宮御所外周は坂が厳しい玄人好みの難コースだ。

マラソンを走り切るためにはきついトレーニングが必要。でも一人で走っていると苦しくてすぐ止まってしまう。

でも仲間と走ると、置いていかれたくない、という意識が支えとなり、自分を追い込んでより速く・長く走れる。だから誰かと走る練習会には大きな意味がある。

本当にきつい時でも体は最初には止まらない。まず心が先に止まり、それに呼応して体が止まる。心を強く持つのは、体を鍛えるのと同じくらい大切だ。

東宮御所外周では外堀通りに入った直後の紀伊国坂が厳しい登りになっている。そこでは前を走る仲間にぴったりくっついて走る。

ランニングでは「引っ張ってもらう」という言葉がある。前を走る人の後ろにくっついて走る、という意味だ。もちろん実際に紐で結んで引っ張るわけではない。でもこの坂では、仲間と紐で繋がれ、自分一人では止まってしまいそうになる所を、仲間に引っ張り上げてもらっているという感覚がある。

仕事でも学業でもそしてランニングでも、どこで誰と何をするかの環境によって自分の心と能力は拡張も縮小もする。

僕にとってはそれを凝縮したのが東宮御所の紀伊国坂を仲間と走ることだ。たった一分間前後で通過する坂だが、体も心も強く共鳴し合う。周りの人と引っ張り合いながら、心を強く持ち続けて進んでいく。

次第に心を覆っている”逃げる気持ち”という皮が剥がれ、核にある芯の強さが出てくる。そして自分一人ではできないことができるようになる。

「気持ちが大事だ」よく言われるが日常生活でそれを体感することは少ない。でも誰かと一緒に走るだけでそれは具体的に実感できる。気持ちが鼓舞され、何かに導かれ支えられ、走り続けられる。

そしてきつければきついほど、一緒に走る仲間との連帯感は強くなり、さらにお互いを高め合える。

普段、人間は自分に与えられた本来の能力の一部しか使っていないと言う

仲間の力を借りて自分を追い込むと、普段の限界の先にある可能性を感じられる。「自分はもっとできるんだ」という気持ちは体を前へ向かせ、きつい坂道を登る力を与えてくれる。

誰もが子供の頃は自分の無限の可能性を無邪気に信じていたのではないだろうか。でも大人になると日々の現実と制約の中でそれが見えにくくなってしまう。

今を生きる大人にとって、自分の可能性を具体的に実感できることは、大切なことだと思う。

そしてそれは誰かと少し走ってみることで感じられる。

2、大阪府大阪市、大川 -心の奥底にあること-

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大阪市内中心部を流れている大川。川沿いに整備された歩道ではランナーや散歩する人々が行き交う。

桜の名所の造幣局や難波橋・天満橋などの名橋が大阪の歴史も感じさせる場所だ。橋は距離調整の目安にもなる。今日は天満橋まで走って折り返そう、という感じで時間と体調と相談して走る距離を決められる良いコースだ。

会社でもテレワーク(在宅勤務)が日常化している。以前は機械的に毎日通勤していた身としては、一日中狭い部屋にこもりパソコンに向かって仕事をするのは心身ともにきつい。座って動いてないと未消化のエネルギーが脳にいってしまう。

モヤモヤと色々考え出し、心配事、イライラ、孤独、不安という負の感情が出てきやすくなる。特に人との会話が少ない日は、それらが自分の中でぐるぐると回りながら更に増幅してしまう。

気持ちが傾いてしまうのを予防するためにも、朝走ることにしている。朝日を浴びて走る、体を前に進める。すると不思議と気持ちも前向きになる。明るい中で前進しているのだから、暗く後ろ向きになりようがない、と勝手に解釈している。

朝日で照らされた大川沿いをゆっくりと走っていると、眠っていた脳に血がめぐり、多くの気づきがある。夜眠っている間にも人間の脳はせっせと動いていて情報整理をしているらしいが、それに光が当たってクリアに見えてくる感じだ。

朝一番で走ると自分が本当に思っている事にアクセスできる。
「僕が本当にやりたいことはやっぱりこれなんだ」
「最近家族と話せていないな、今夜は話そう」
「前職の先輩に久しぶりに連絡してみよう」
「職場のあの人、苦手だけどきちんと説明しよう」

自分の心の奥底にもともとあったものが掘り起こされてくる。芋掘りのように次から次へと。

脳は常に大切な何かを抱えている。けれどそれらは、日常生活での絶え間ないノイズと刺激で覆い隠され、見えにくくなっている。

スマホ、SNS、テレビ、、現代人が一日に受け取る情報量は平安時代に生きた人の一生分らしい。

ほとんどが自分に直接関係ない刹那的な事だが、自分にとって本当に大切なことを分厚く覆い隠すノイズになっている。

ノイズを言い訳にして、大切なことにアクセスをしないと、それは心の奥深くに沈着してしまい自分自身でさえも忘れてしまう。

走っている最中にはその大切なことにアクセスできる感覚がある。なぜだろう? 

走ると強制的にオフラインになる。スマホやネットから発せられるオンラインのノイズから遮断される。

そして、走って苦しくなると、どうでもいいこと・優先度の低いことは考えられなくなる。すると大切なことだけが自然と浮き上がってくる。ひっかかっていたこと、先送りにしていたこと、いつかやりたいと思っていた夢。

走っている最中の苦しい中でも思い浮かんできたことは、大切な意味のあることだと思う。だから走った後はそれらを文字に残し、大切なことが再び沈んでしまわないようにする。そしてそれをそのまま素直に実行する。こうすると良い生活の流れができる。

もし心の奥底で何かを感じているけどよく見えないなら、走ってみるといいかもしれない。

3、東京都品川区、戸越から御茶ノ水 -2時間の静寂-

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父が入院した。もう長くはない、と主治医に言われた。

ドラマのワンシーンのような光景が自分の家族に現実に降りかかり、気持ちの整理がつかなくなった。

目の前の父はベッドで静かに眠っているが、いずれ永遠の別れがくる。とてつもなく大きな事に直面しているが、心は右往左往するだけで何も考えられない。

父は学生時代、中距離の陸上選手だった。マラソンや駅伝を観るのも好きだったので、僕が走ることも応援してくれていた。僕が東京マラソンを走った時には、名前入りの旗を作って、沿道で振って応援してくれた。

自宅ある戸越から病院のあるお茶の水まで走ってお見舞いに行っていた。戸越から走ってきたよ、と言えばランニング好きな父なら元気に目を開いてくれると思っていた。

一方でそれは自分自身の為でもあった。

走っていないと心が壊れそうだった。寝ても覚めても父のことを考えていた。日常生活の中でも気づくと涙が出ていた。

病院へは片道10キロ、往復20キロ。合計2時間弱。いつもより速いスピードで走った。だから走っている間は苦しかった。

でもそのおかげで目の前の現実を、決して忘れはできないが、霞ませることができた。

体が苦しくなるのと反比例するように、その時だけは心の中には束の間の静寂があった。疲れて汚れて皺がついた心が洗われる感覚があった。走っている間の僅かな時間だったが、苦しい毎日の中で、一時的にでも心が洗えたことには意味があった。

父と過ごした最期の時間はそれなりに心を保って過ごすことができた。もちろん悲しみや恐怖はその間も消えてないが、病院の行き帰りに走っていた2時間は束の間の静寂があり、この現実に向き合ってできることはしていく、という冷静な気持ちを持つことができた。そのおかげで家族・病院の方々・色んな人と父についての話ができた。

桜が綺麗な晴れた日の朝に父は旅立った。

いつも僕が走っていく時間よりも早い時間にスマホが鳴った。僕は急いでタクシーで病院へ向かった。

「今までたくさん走って来てくれたんだから最後くらいはいいよ」と言ってくれたのかもしれない。

その日は僕も走らなかった。

4、東京都世田谷区、砧公園 -走る意味-

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砧公園の外周は一周3キロ弱で適度なアップダウンがある。早朝から多くの老若男女が思い思いの時を過ごしている。ランニング、ウォーキング、ラジオ体操、太極拳、犬の散歩。

少し前に引っ越してきて、ようやく定番のランニングコースを作ることができた。週に数回、朝の時間をここで走って過ごしている。

近隣にある大学駅伝有名校の陸上部もここで練習している。彼らは音もなく背後から近づき、颯爽と僕を抜き去っていく。僕はいつも彼らの背中しか見られない。

彼らの走りと絞り込まれた脚は美しい。少しでも速く走るために極限まで鍛えられたその体はレーシングカーを連想させる。どれくらいの距離を走ればあのようになるのだろう。それなりに走っていると自負する僕の脚と比べても雲泥の差がある。

彼らの背中を見ていると、今何を思って走っているのだろうか、と思うことがある。結果を求められる競技者として走ることは想像できないくらい厳しく、またそこから得られるものも大きいのだと思う。

そしてもう一つ思う。

彼らは大学卒業後も走り続けるのだろうか、と。

僕が大学生の頃は走ることに全く興味がなかった。けれど中年を迎えた20年後の今こうして走っている。

もし彼らと話せることがあれば、人生の先輩として、勇気を出してこう伝えたい。

走ることの大きな意味は、人の心を支え背中を押してくれることだ。

それは、人生の節目や難しい時にこそ助けてくれる。家族・仕事・生き方を考える事が増え、分かれ道を自ら選択する、人生の中盤以降でより強い意味を持ってくる。

今二十歳前後の彼らは競技を終えたその先数十年の人生の中で、そんな場面に多く出くわすだろう。そして数々の選択・決断・受容を自分でしていかなければならない。

その時にこそ走ることで、心が洗われ、自分にとって本当に大切なことが見え、自分の背中が押される。

ゆっくりでも時々でもいいから、その時まで走り続けて欲しい。そう思いながら、交差点を左に曲がる彼らの背中を見送った。

いつもの朝

朝4:30、スマホのアラームで起こされる。今日も走るのか‥。リビングルームでボーッとしながら、走り出せるきっかけをさがす。

走らない理由はいくらでも作れる。
疲れた、眠い、忙しい、雨、寒い、暑い。

それでも最後は結局走りだす。それは走る意味を理解できたからだ。

走る、心を洗う。

今日という1日を少しでも良くするために。

そしてまたいつか来る大切な時に、背中を押してもらい、支えてもらうために。


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小池 中人/Nakato Koike
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