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2019年 28冊目『暴走する能力主義』
いわゆる論文のような言い回しが多く、門外漢が読むには骨が折れます。
そうだとして、中身はとても興味深い本でした。
能力主義の時代だといわれます。
その意味は、一般的に学力偏重からの移行だと考えられています。
しかし、「かつてはガリ勉が高く評価されていて、最近では勉強だけではだめで、人間性とかコミュニケーション能力などの非定型能力が評価されるようになっている」といった議論は何も新しく始まったことではない。
というのが著者の主張です。
実は、「新しい能力」としてあげられる能力は、昔から必要だと言われていたものと何ら変わらないとうのが著者の主張です。
まともな先生であれば、著者の主張が痛いほどよくわかっているそうです。現在言われているキーコンピテンシーのどこが新しいんだ、と。
大昔から言われているのです。
時代の変化に合わせて、学習として学校は、それらの新しい能力を取り入れてきました。
しかし、学校教育に取り入れると、学力を測定することが必要となります。そして、能力は測れるものだということが前提となります。
ところが、抽象的能力は、そもそも厳密に測定することはできません。
ほとんどの「新しい能力」論が、むしろ、前期近代的な学歴・学校・試験を軸としたメリトクラシーを問い直すこと自体を常態とする、後期近代における再帰性現象そのものなのだ
→なかなか読むのに骨が折れるでしょう?
著者の『再帰性メリトクラシーの理論』によれば、
前近代には「伝統」という再帰性を抑制する主因があり、前期近代には「学歴」があったが、後期近代には「主因」と呼べるものががなくなり、メリトクラシーがもともと反省的に問いなおされる性質(再帰性)をその内在的特性としてもっていたので、暴走が起こっている
→さらに読むのが難しいでしょう?
教育システムを一貫した思想によって塗り込めようとしてしまうことがいかにハイリスクなものかということは、これまでの歴史の示すところではなかっただろうか。もしその全体を貫徹する基本理念に大きな欠陥があったら、社会全体がその負債を将来的に、しかも長期的に抱え込むことになりはしないか。
→なるほどって感じです。でも読むのは難しいです。
特定の方向にオアシスがあると決めつけて、全員をそこに向かわせようとするのは得策ではない。なぜなら、予測不能な状況下では、全員でがんばってかけつけてみたがそこにオアシスはなかった、ということはいくらでも起こりうるからである。
→おっしゃる通り。
全体のコンセプトが間違っていて、測定できないものを、さも測定できるとして、それで評価して・・・。
その通りですね!