流星に似ていた
精神安定剤と睡眠薬を合計でn粒も飲んでいると脳細胞がめきめき死んでいく。そんな医学的根拠はおそらくなくて肌感ベースの、肌感ベースという言葉、あまりにもベンチャー企業の若手社員の喋り方だ、そういえばこの前オフィスのリフレッシュルームa.k.a.休憩室で隣の卓の男の子があまりにもベンチャー企業の若手社員の喋り方で集合住宅の騒音問題について喋っててさあ、どのへんがそうだったかって言われると、うーん、どんな単語が出てきたかな、ちょっと思い出せないな、思い出せないといえば、なんの話してたんだっけ?
そう、そうか、脳細胞。ここ一年くらい私の記憶はずっと混濁しており、昨日何していたか、さっき何を話していたか、燃えるゴミは何曜日か、今読んだ漫画の主人公の名前は、次に何を書こうとしていたのか、なにも、何も覚えていない。そのうち心ごと亡くして、死にたくならなくなる、そんな日がやってくるのだろう。
薬の効能を拒絶する人が多く居るのも知っている。なんでも、自分が自分じゃなくなるんだって。私は私にしがみつけるほど素晴らしい人間じゃなかったし、ないから、むしろ早く自分じゃなくなればいいと思う。自分でなくなることが魂の死だとする向きだってあるが、私は、死にたくなくなるためなら死んでしまっても構わない。
こんな状態になってしまっても、覚えていることがある。
高校生のときだった。『けいおん!』の流行に伴い、軽音楽部に、ナードたちが七人も揃う奇跡があった。そんなのもう、バンドが組めてしまう。組んでいた。だが、別に音楽で心は通じ合わないものなので、ナードはナードらしく身を寄せ合い、他のバンドとは口も利かず、ろくに練習もしないで、メンバー同士でモンハンばかりして過ごしていた。
二年生になった。部活動では中心となる学年だ。文化祭の後夜祭、三送会、来年の新歓、そのどれかに出なくてはいけなくて、僕らはどの会にも相応しくないのが明白で、辛うじて何やってもいい後夜祭かしらん、なんて思っていて、今思うといちばん花形なんだからお前らが出たらお通夜だよ、だけどまあ普段まともに部活動に参画していないもんだから発言権なんてなくて、なりゆきで三送会に出ることになった。先輩の誰も我々のことなんて可愛がっていないし、我々も誰のことも尊敬していなかったのに。よっぽど、感謝を伝えたいであろう他の部員が担当すべきだっただろうが、どんなに抗議したって覆らなかった。さらには新部長に、三送会らしい曲を、と釘を刺され念を押され、普段ボーカロイド楽曲やアニメソングばかり演奏しているのに、わざわざ卒業ソングを覚えることになったのだった。
ボーカルだった私は、高音早口が特徴とされていた当時のボーカロイド楽曲を原曲キーで張り上げて歌い通す芸当一本でなんとか狭い肩身をこじ開けていたのだが、泣く泣く選んだJ-POPはとてもじゃないが叫んだりがなったり喚いたりするような曲ではなくて、どちらかというとウィスパーボイスで歌いたくなるような感じで、頭を抱えながらも練習の日々を送っていた。完成イメージを誰も擦り合わせに来なかったくせに、リハーサルのとき、どんなにゲインを上げても演奏に負ける歌声に対して、PA担当の部員が私に聞こえるように陰口を叩いた。
「いつもマイク要らないんだから今日も声張れよ」
どう考えてもそんな曲じゃない! いくら下手くそな私にも、表現者の矜持だけはあった。わざわざ、歌い方を一時的にでも矯正できるように、ここまで練習してきたのだ。それは、一種の誠意でもあった。贈る相手への最大限の気持ちを、織り込んで、歌として、表現するつもりだった。それを、私らしくないと一蹴された。悪いのはこのみすぼらしい県立高校の、ぼろぼろな体育館とぼろぼろな音響機械なのに?
誰も期待していないのはわかっていた。このままステージに穴を開けてしまいたかった。全校生徒の時間を無駄にして、会そのものをめちゃくちゃにして、餞なんて投げ捨てて……、
だけど私はロックンロールにはなれなかった。
教室から移動する際、クラスメイトに、今日出るんだっけ? と聞かれた。そうだと返す私は相当浮かない顔をしていたのだろう。嘘か真か、噂で私の歌がすごく上手いと聞いたから、楽しみにしている、と伝えてくれた。唯一私達の演奏を期待してくれている、観客。でも、練習してきたけど、苦手なタイプの曲。不安は大きくなるばかりだった。
幕が上がっている間、いま、三年生の誰もが、誰? と思っているのだろう、数少ない私達を認識している先輩たちなんかは、識っているがゆえに、嘲笑しているかもしれない、なんでお前らなの? なんで私達なの? こんなの、拷問とか処刑のたぐいじゃないか、衆目に、晒されているんだ、道化に過ぎないのだ、とばかり考えていて、全然歌になんて集中できなかった。
最悪だったのはその後だった。転換中、会自体の司会進行を務めていた軽音楽部の他のボーカルが、時間稼ぎに歌い出したのだ!
じゃあ、私は、なんのために歌ったんだ?
三年生のみなさん、ありがとうございましたー、と歌いきった司会が朗らかに言う。スピーキング用のマイクで、アカペラで、それでも私達のときよりも拍手が大きいように感じた。歌の技量? 違う、もっと根本的なところだ。人望。人に見てもらうためには、人を見ていなくてはいけない。芸術は、本来、双方向なのだから……、そんなの、いまになったからわかる。
バンドメンバーと肩を寄せ合って泣いた。当て馬にされたのだと思った。自分らなりに努力をしたつもりだったが、全部前座として使われるためのものだったのだ。緊張も、不安も、要らなかった。だって、私達のステージそのものが、要らなかったんだから。
機材を片付け終わってからだいぶ経って、やっとクラスの列に戻っていった。さっきのクラスメイトが、唯一の観客が、こっそり近づいて声をかけてくれた。
「お疲れ様。上手だったよ……思ってたより、何倍も」
それは、暗がりに差し込む一筋の光だった。流星に似ていた。似ているけれど、どちらかといえば、願いそのものだった。
どれだけその言葉が体じゅうに染み渡ったことか。ほしくてほしくてたまらなかった承認が、すべてそこに詰まっていた。
お疲れ様。本当に疲れた。ありがとう。
上手だったよ。嬉しいな。練習した甲斐があった。
思ってたより何倍も。本当に? ……本当に? 私は期待を超えることができた? それならば、私はあなたのために舞台に立っていたのかもしれない。
思い出す。思い出して、たまに祈る。
あなたの幸せを? 私の幸せを? 燻った少年少女たちの幸せを?
思い出す。きらめきを。暗黒の春に咲く桜を。渇いた自意識に一滴差された潤いを。
だけどもう、あの子の顔も名前も覚えていない。