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『肩パン』 中ニの夏頃、スリッパの裏を一部くり抜いて壁に飛ばし破裂音を響かせる遊びの次に流行ったのが肩パンだった。肩パンは単純な遊びで、ただお互いの二の腕をグーパンチで殴るだけのこと。それを繰り返し喜び合う波は陰キャの僕たちのもとまで押し寄せてきた。 殴り殴られ続けた僕らの右の二の腕はやがて肥大化しカッターシャツの袖が通らなくなったので男子生徒のほとんどが右の袖だけノースリーブになった。 小池はクラスで唯一のサウスポーとして左の袖を破っていたのでたちまち女子たちに
ロイが彼女について知っていることといえば、その声が魅せる表情の豊かさと悪戯なユーモアだけだった。 彼女、アリスは月面軌道上にある国際宇宙ステーションの管制塔で、ロイのような船乗りたちに指示を出していた。 ロイは初めて彼女の指示を受けた時からその声が好きだった。ユーモアに溢れた彼女とのやりとりは寄港の際の楽しみとなり、いつしかその声を聞くためにこのステーションへ寄り道するようになっていた。 しかし、ロイはしばらく拠点を火星に移すことが決まった。だから最後の記念にと思い、
『願いの一冊』 中華製スマホのOLEDが生徒たちの顔にプロジェクションマッピングを施している。昼休みの食堂でそんな簡易仮装をして動画を取り合う彼らを見ている光景にも慣れた。2020年代に入ってから学校が電子図書館への移行を推進し、ついに今年の春、修治が勤めているこの学校の図書室も食堂広場と合併させられた。 生徒たちが紙の本に触れる機会が減ったことで、司書である彼の役割は大きくなったはずなのだが、本を選んで欲しいと頼みにくる生徒などほとんどいなかった。わざわざ騒がしい
冷たい風を頬に感じながら桜を見上げ、私のことを誰も知らない町だ、と思った。日本海側に位置する地方大学に進学した私は、晴れて憧れのひとり暮らしを始めた。好きな食器を買って、東急ハンズで見つけたシャンプーボトルを三つ並べ、ひとりの町で眠った。 「写真お願いできますか?」 老夫婦に尋ねられ、私は笑顔で頷いた。コンパクトデジカメを構えて言葉をかけると、二人は桜をバックに微笑んだ。それがこの町に来てから、初めて私に向けられた笑みだった。 日本海側の春風はいつまでも冷たく、大学生の
『訪問販売』 「ジングルベルがリーンリンリン」 いい匂いのするサンタコスの訪問販売員がそう言ったかと思うと私はマンション購入の契約書にサインしていた。彼女は書類を受け取ると笑顔で「メリークリスマース」と言って立ち去ろうとするので「ちょっと待って!」と引き止めた。 「なあに?」 「そのベルは売ってくれないの?」 彼女は口元に人差し指を当て「うーん」と思案した。 「これは結構値が張っちゃうよー?」 「どれくらい?」 じゃあとりあえずこれを買ってもらおうかな、とサンタは
『禁煙しようと思った日』 煙草を吸うのをやめようと思った。煙草を吸っているとどうしても胸式呼吸になった。いつもの立体駐車場でエンジンをかけたままほんの少しだけパワーウィンドを下げると最後のつもりで火をつけた。青白い煙は窓の隙間から出ていくことなく僕の目の前で渦巻いていた。砂漠の夜明けみたいな色だなと思った。砂漠の夜明けを見たことはなかった。昔どこかでそんな文章を読んだ。それを思い出しただけだった。借り物の言葉で僕は生きていた。 月曜日の朝に胃痙攣をおこしてから何を
苛々するイライラするいらいらする。まずは読んでから言えっつーの読む前からわしの人格否定してんじゃねーよ。わしのことなんてどうでもいいんだよ。なんで「君にはキラリと光るものを感じない」とか言っちゃうのかね。そんなダサいセリフ小説で使うわけないだろ。そんで「君の小説は自慰行為でしかない」だって。読んでもいないくせにさ。わしのこと何も知らないくせに何が「君は本当に人を愛したことがあるのか」だ。こっちは大恋愛の末に大学やめて自殺未遂してんだよ。まあね未遂だから。本気で死ぬ気があ