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猫雑貨屋のレモネード

冷たい風を頬に感じながら桜を見上げ、私のことを誰も知らない町だ、と思った。日本海側に位置する地方大学に進学した私は、晴れて憧れのひとり暮らしを始めた。好きな食器を買って、東急ハンズで見つけたシャンプーボトルを三つ並べ、ひとりの町で眠った。

「写真お願いできますか?」

老夫婦に尋ねられ、私は笑顔で頷いた。コンパクトデジカメを構えて言葉をかけると、二人は桜をバックに微笑んだ。それがこの町に来てから、初めて私に向けられた笑みだった。

日本海側の春風はいつまでも冷たく、大学生の自分にうまく馴染めない私にはまるで町の拒絶のように思えた。けれど誰も私になんて構っている暇はなくて、それはただの被害妄想。

散歩から戻り、まっすぐ伸びる階段を四階まで上がる。もし上の方で足をひっかければ四階分真っ逆さまだ。二階と三階の間で一段の高さがほんの少しだけ変わるところが注意ポイントだった。

重いドアを引くと目の前に男性の胴くらいの太さの支柱がある。部屋は奥に向けて広がっており、家賃のわりに広い部屋は暖房がききづらかった。きっとこの玄関のあたりのスペースで無駄にエネルギーを使っている。

玄関先のトイレとお風呂を通り過ぎると右手側にキッチンがある。百均でそろえたグッズがきれいに収まっているが、一度使うともとに戻せなさそうなのでほとんど出番はない。

中古屋で買ってきた机には無印で買ったランチョンマット。実家から持ってきたソファーに腰を下ろし、何がしたかったんだっけなと思った。

新しい生活を始めると、面白そうな何もかもが向こうからやってくるような気がしていた。けれど自分から飛び込んでいかなければ結局何も起こらない。代り映えしない孤独な日々が続いていく。

入学最初の週にあった学科の懇親会のような泊りがけのオリエンテーションから帰ってきたとき、一階のテナントに入っている雑貨屋に初めて目をとめた。

どうして気がつかなかったのだろう。そこは猫雑貨の店で、私の好きなわちふぃーるどの取扱店だったのだ。

私は猫のダヤンの物語が大好きだった。あたたかくかわいらしい彼らの冒険を図書館で読んでいたのは、小学生のころのこと。

高校生の時は、近くのイオンにわちふぃーるど取扱店を見つけ、友達へのプレゼントなどはよくそこで買っていた。

扉を開くと、ぬくい暖房の風が首元を撫で、猫にすり寄られたような気分になった。というのは脚色で、店内には誰もおらず、入っていいのかわからないままわちふぃーるどのグッズに惹かれ、店の奥へとゆっくり誘われた。

「いらっしゃい」

始めてみる多くのダヤングッズに目を奪われていた私は、背後からかけられた心地良いおばさんの声に振り返った。

「こんにちは」

「ゆっくり見てってね」

暖かい笑顔で迎えてくれたその人のことを、私は一目で好きになった。

それから、学校帰りに階段を上がる前、この店で少しおしゃべりするのが私の日課になった。店には接客用のカウンターがあり、そこに座ってふたりでコーヒーを飲んだ。

おばさんはコーヒーを淹れることにこだわりがあり、スーパーなどでよく売っている台形方のコーヒーフィルターではなく、円錐形のものを使った。また、お湯を注ぐのは先の細い専用のやかんでなくてはならず、蒸らしの時間も確保し、コーヒーを淹れること自体を楽しんでいた。

その影響で私もやかんを買ったり、少し遠いところのコーヒー豆を買いに行って雑貨屋にあるミルで挽いてもらったりした。

けれど正直に言って、コーヒーの味はあんまりわからなかった。それらにこだわりながらコーヒーを淹れ、おしゃべりをするのが楽しかった。

「こっちのおかんやと思いなよ」

入り浸る友達のいない私にそう言って、コーヒーやココアを出してくれる。私はそんなぬくたい空間に甘え、やさしい世界で日々を過ごすことができた。

私が大学を去る日、おばさんは暖かいレモネードをいれてくれた。冬も深まり、凍える風の中にみぞれが混じっていた。

「いつか牡蠣送ってな」

おばさんの好物を私は今も覚えている。けれど、その約束はまだ果たされていない。私が一人前になって、おばさんに顔向けできる日は来るのだろうか。

初めて借りたあの部屋を思い出すとき、私の頭に浮かぶのはあの甘ったるい酸っぱさだった。私の未熟さを示すような、甘ったれたぬくもり。

会いたいな。そう思いながら、この記録を終える。

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