枯れて落ちるは自明の理か
厳しい寒さを迎えて、我が家の庭の木々も木の葉を落としてしまった。冬の木々の様は、人の心をおセンチにする。何とはなしに、保育園の年長だったときのことを思い出した。
ある冬の日のこと、保育園の広場で遊んだあと、先生が数字の学習をかねて、「広場の枯れ葉を4枚集めた人から教室に戻りましょう」とおっしゃった。するとほかの友達は、当たり前のように黄色や茶色の落ち葉を拾って先生に見せに行った。先生はそれぞれの生徒の持っている葉っぱを数えて、教室へ戻るOKサインを出していた。そのような中、私はかたくなに落ち葉を拾わなかった。
早い話が、「落ち葉」は「落ちた葉」であって、「枯れた葉」ではないと思っていたのだ。先生が言っているのは「落ち葉」ではなく「枯れ葉」。だから、地面から生えていて“ふ”の部分のある雑草。すなわち「枯れ葉」を私はひたすら探していたのであった。
人はいったいいつ頃さまざまなの概念の重複を理解するのだろうか。今でこそ「枯れて葉は落ちる」と分かっているので、「枯れ葉を持ってこい」と言われれば「落ち葉」を探すであろう。しかし年長当時の私はこの「枯れて葉は落ちる」というしくみや概念を理解していなかったのだ。
受験勉強も同じなんだろうな、としみじみと感じる。教える側にとってみれば「当たり前」のことも、高校生・中学生にとってみれば「当たり前」ではないことの方が多いはずだ。大人にとっての「当たり前」を、テキストをそのままなぞって教えても生徒は納得できないのだ。「当たり前」を押し付けてきていなかったかどうか、改めて反省した。