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書くことは不純ですか

『書くことの不純』というタイトル


『書くことの不純』と言うタイトルに?と思って手に取りました。
探検家の角幡唯介さんの著書です。
角幡さんは「なぞの渓谷」と呼ばれていた、チベットの渓谷の空白部を単独で調査した探検を書いた『空白の五マイル』で、2010年の開高健ノンフィクション賞を受けています。
最近では、数ヶ月に渡る極夜の北極圏の単独行を書いた『極夜行』で本屋大賞をとられています。
一口に探検と言っても角幡さんの場合、命の危険と隣り合わせのような極限も、味わわれていると思います。
犬橇の、犬の食料調達の為に狩りをするとか、今便利な日常に甘んじている私には想像もできません。

「角幡さんは世の中に貢献はしてないですよね」


そんな角幡さんがある取材の時にZ世代のインタビュアーに、この言葉をかけられ、一瞬絶句して、衝撃を受けます。
集団意識の中に、世の中に貢献している、していない、の価値観が強く植え付けられているのを感じます。
ここから派生して、人の内在(内なる要求)と関係(社会との係わり)を追求していきます。
角幡さんにとっての内在は、探検したいと思うエネルギーで、所謂、関係
(社会との接点)は、角幡さんの生業である書くことです。
書き手という立ち位置を持ってからは、探検に面白くしたいという気持ちが働くようです。   それを角幡さんは不純といいます。
その程度の不純は人として当然のことのようにも思いますが、危険を伴う現場では、軽率な判断は、命取りになる可能性もあります。

私にとっての内在と関係

一方、自分に当てはめて見ると、私にとっては書くこと自体が内在です。  心の底からの、書きたい要求に従っているつもりです。
だったらそこに、不純はないかと思いきや、自分の根幹を歪めても、受け入れて貰いやすいものを書くとしたら、それは十分不純なんだと思います。
でも私にはそんな才覚もないので、不純になりようがないです。

人生では、そもそも人間は生まれてから不純を受け入れて生きてきたと、思うのです。   生きるためにまとってきた不純を一枚ずつ脱ぎ捨てて、内在する自分にたどり着くことが書くことなのかなと思います。
だから、そこは、角幡さんのようなノンフィクションとかドキュメンタリーを書く人とは出発点が異なります。
ただ探検と芸術の共通点は「一歩踏み出す」ことと言われています。

どちらも、人に受け入れられたい気持ちが大きすぎると、思い通りにいかなかった時に、揺らぎやすく、迷走してしまうのかと、思います。
内在をもってやっていることなら、受け入れられても、受け入れられなくても、受け止められます。

時の運

そこには時の運もあると思います。
運よく一瞬で好転することもあれば、一生憂き目を見ないということだってあります。 というか、その方が多いです。

先日たまたまテレビを見ていたら、今公開中の映画『スオミの話をしよう』のキャストが何人か出演されていました。
好きな俳優さんが多かったので、興味深く見ていました。
その中で売れたきっかけの話がありました。
西島秀俊さんが北野武監督のオーディションに行った時の話が印象的でした。   物の一分で主演が決まったそうです。
ふとしためぐり合わせで人生は大きく変わります。
それは一瞬の出来事です。
それまで、ちょい役しか出ていなかった、西島秀俊は今や押しも押されもしない俳優さんです。
たしかにそんなのは一握りのサクセスストーリーです。
でも好きを追求していたからこそおきたミラクルです。
気の長い話をすれば、今世で実を結ばなくても、私は来世もある気がしています。

共通の思い

 角幡さんのおっしゃっていたことで、もう一つ共通の思いを感じた事があります。
スポーツ選手とか、インフルエンサー的な人達が一様に感謝ばかりするが、感謝の羅列で息苦しい・・・。
迷惑とみなされないように、責任を追及されないようにと先回りした過剰な感謝が溢れているといいます。
私も無骨な自分をヒシヒシと感じる位には、丁重な世の中に辟易としています。
時代の価値観は常に、批評に晒され相対化する必要があるとおっしゃっています。
この本のテーマは日本人の自己認識とのことですが、私は極限を体験してきた人の、そぎ落とされた視点というものを感じました。

今回いつもなら手にしないだろうと思う本に触れて、ちょっとだけ視野が広がった気がします。 出会いに感謝します。




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