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ですます調か?だである調か?僕はこっち。
ですます調か?だである調か?
noteを書くとき誰もが一度は悩むのではないだろか。
僕はずっと悩んでいます。
悩んだ結果、下書きが20記事ほどあるのにいまだ投稿数0という袋小路に入り込んでしまった。
本音を言えば「だである調」で書きたい。
昔の文豪っぽくてかっこいいからだ。
それ以外に特に理由はない。
しかし、だである調には、思わず目をそらしたくなるような恐ろしいデメリットが隠れている。
まず、ですます調で書かれたこちらの文章を見てほしい。
はじめまして。
ナカムラリョウです。
物書きに憧れてnoteを始めました。
何気ない日常の中にあるちょとした気付きやユーモアを文章にしていこうと思います。
うん、まとまっていて読みやすい。
伝えたい内容が過不足なく書かれていて、すっと頭に入ってくる。
さて、これをだである調にしてみよう。
はじめまして。
ナカムラリョウだ。
子どものころは誰もが「夢」を持っていたはずだ。
きっとあなたもそうだろう。
給料が良いとか悪いとか、休日が多いとか少ないとか、そういうことよりもっと大切で繊細な、ガラス細工のようなものだ。
だが、試験という名目で能力が点数化されたり、就活というレースで自分と他人を比べたりしているうちに、いつの間にかその夢を忘れてしまう。
そして、ネバーランドに行く資格を失うのだ。
僕にとっては物書きというのがそれだった。
…
どうだろうか?
全体的に偉そうだし、何やらメンドクサそうな話をダラダラ始めてしまった。
もはや書いている本人も論旨を見失っている。
これがだである調の恐ろしさだ。
書いているうちに、あろうことか自分のことを文豪か何かだと勘違いしてしまうのだ。
断じて、僕が浅はかなのではない。
だである調が恐ろしいのだ。
その点、ですます調はいい。
「何かを伝えるために書いている」ということを常に意識できるし、それなりに読みやすい文章を書くことができる。
そもそも、だである調の方が昔の文豪っぽいってなんだ。
太宰治の人間失格はですます調で書かれている。
結論を言おう。
僕はだである調で書くことを選んだ。
確かに、だである調で書かれた僕の文章はメンドクサイ。
だが、僕はメンドクサイ文章の方が好きだ。
スラスラと読みやすい文章より、作者の自意識でベタベタに汚れた、読んでいて疲れる文章の方が好きだ。
読みにくい文章が好きなのではない。
書き手が「自分の好き」と「他者からの評価」を天秤にかけた結果、圧倒的に前者が勝ってしまっている文章が好きなのだ。
僕にとってだである調を選ぶということは、そういう決意の表明だ。
他者からの評価より自分の好きを優先すると決めたのだ。
僕は退かぬ!媚びぬ!省みぬ!!
帝王に逃走はないのだ――!!!
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