大江健三郎作『「雨の木」を聴く女たち』
大江健三郎作品を読んでいて、最近、はっきりと自分で気がついたことがあります。
大江健三郎作品を読んでいる時、私は不思議な感覚になります。
この感覚は他の作家さんの作品の場合は得られない感覚です。
(三島由紀夫作品を読んでいる時も、また別の不思議な感覚になります。)
それが、純文学と大衆文学の違いなのかも知れませんが、
もはやあらすじがどうこうというのではなく、
私の感情はどうなるのかという点に集中しながら本を読んでいます。
私の読み方が間違っているのか、はっきりとはしませんが、
後半になるにつれて、物語が強烈になっている気がしました。
後半の女性への犯罪と、それに関連した主人公の感情には共感できます。
(犯人と自分の違いはなんなのか、その違いをはっきりさせたくて、ずっと答えを探すという行為は、多くの人が共感できるのではないでしょうか。)
私が野暮なことに、大江さんの作品を読みながら、この事件は、この人間関係は本当にあったことなのかと、調べてしまいます。
(今、気がつきました。本当にあったのかどうかは調べないほうが、もっと楽しめるはずです。禁欲的に本を読んだ方が、読後感はずっといい物になるだろうと思います。)
『「雨の木」を聴く女たち』は、高学歴でありながら落ちぶれていく男達と、それを支える女達が一つのテーマだと思いました。
でも、だとしたら、当初の「雨の木」が生えている施設の話は、どう解釈したらいいのかと悩みました。
私は、「雨の木」が生えている施設で開かれた学会は、大江さんの作品のテーマである、「共生」をめぐる思想と関係していると思っています。
「雨の木」を振り返り見なかった主人公は、共生に熱血的に取り組むことができない性格で、それは後半には家庭を置いて酒に溺れる生活を送る性格として一貫しているのでしょうか。
少なくとも、何だか私は暗い気持ちになりました。
(本の影響なのか、私生活の疲れなのか、分かりません。)
これで、しばらく、大江さんの作品は読まないでおこうと思います。
(疲れている私の頭に、大江さんの作品はヘビーすぎる。
と言いながら、本棚には次の作品「洪水はわが魂に及び」があるのに。)
そういえば、記憶に残った一節として
玉利君が言った
があります。
これは私的には、他人のことを書く作家としての主人公に向けられた、厳しい一言のように感じました。
でも、作家でない、私にも響く言葉です。
他人のことを、分かったように形容する癖を直したいです。
(他人の言うことは、分からないながらに受け入れると言うことが大切だと理解しました。)
(玉利君の、上記のセリフが、全てひらがなであることは、
主人公がその言葉に衝撃を受けたのと、
玉利君の発言に全く力や漢字的な語調を感じなかった、純粋な心からの言葉だったんだろうなと解釈しました。)