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大江健三郎作『死者の奢り・飼育』を読んで

大江健三郎さんの作品は『新しい人よ眼ざめよ』に続いて、2作品目の感想文になります。
『新しい人よ眼ざめよ』がとても面白くて、次に何を読もうかネットで調べて、次の作品として『死者の奢り・飼育』を選びました。

『死者の奢り・飼育』を読んだ感想は、何か大江先生の、現代社会への怒りとか不満、おかしいよなここってという、社会への疑問点のようなものを感じました。

『死者の奢り・飼育』には「死者の奢り」「他人の足」「飼育」「人間の羊」「不意の啞」「戦いの今日」の6つの短編が収録されています。
どの作品からも、大江先生の、社会に対する不満とか、おかしいだろここというツッコミを感じます。

(私が最近、社会に対する不満を持って生きているから、その感情を大江先生の作品に投影させているのでしょうか。だとしたら、そういう文学作品の読み方もいいとは思うのですが、なんだか少し恥ずかしい感じがします。他の大江作品を読んだ人の感想を見て整理してみたいです。)

大江先生の社会へのツッコミについてもう少し具体的に言うと、私はいつも、強者vs弱者、多数派vs少数派の構図をイメージします。

『死者の奢り』では
ヒエラルキー社会のトップである医学部や大学に視察に来る役人
VS
死体処理をする主人公サイド
という構図

『他人の足』では、
回復し退院する見込みを持ち希望を持ち続ける患者
VS
入院患者
という構図

(この構図のイメージを言語としてノートに書いていて、私はなんだか気持ちが絶望してきました。社会に絶望するとう感情は、読書という行為を通して得られる感情で私がすごく好きな感情です。)

『死者の奢り・飼育』に収録されている作品は、すべて簡単なハッピーエンドを迎えません。
多数派vs少数派という構図が崩れることはなく少数派が苦しい思いをして終わります。

(大江さんは、どんなことを思って、文学作品を書いていたのか、気になってきました。私が感じたことが、大江さんの作品制作の核に近いものだったら嬉しいです。)

私もある部分では多数派で、ある部分では少数派だとは思います。
正直言って多数派の人間のことが羨ましくなることがあります。
多数派の人は、正論を自信満々にはっきりと言います。
少数派の人の意見を感情論だと批判します。

でも多数派の生活は、少数派の仕事があって成り立っている部分も大きいはずです。
『死者の奢り』において、多数派の医学部の教授や学生が解剖実習をできるのは、少数派の死体処理の仕事をする人たちが死体を適切に管理していたからです。

さて、『死者の奢り・飼育』に収録されている6つの短編の中で、私は『他人の足』が印象に残りました。最も絶望を感じました。

『他人の足』に出てくる登場人物、全てに既視感がありました。

登場人物の中で、退院していく学生 や 病院で働き密かに患者に性的快楽を与える看護師 は、現在の社会で賞賛されがちな対象だと思います。

でも最も真剣に自分が置かれた状況に向き合って、絶望の中で苦しんでいるのは、快楽を求め続ける主人公たちだと感じました。
外から希望を与えるような言葉をかけるのは簡単です。
希望には快楽はありません。
主人公は一度希望を持ち、看護師からの性的快楽を意思を持って拒否し、自立へ努力しますが、それは続かずまた絶望へと落ちていきます。

その主人公の上がり下がりに私は共感しました。

自己啓発本を読み、少しは頑張るけど、また絶望を感じる、あの感じ。
人生を進める友人を見た時の、あの感じ。

私からすると、今の世間には本とか歌謡曲とか希望を持てと言うメッセージが溢れてる気がします。
もう自分に燃料はないのに、燃えカスに火をつけられている感触です。
そのことに気がついてからは、絶望とか苦しみを文化から摂取したいと思うようになりました。

しばらく大江先生の作品をいくつか読んでみようと思います。
大江先生はどんなことを考えていたのだろうか、気になります。


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