村弘氏穂の日経下段 #31(2017.10.28)
ついに私は私のままでこの町にいるしかなくてジャムサンド食む
(仙台 山上秋恵)
冒頭で「ついに」と唐突に云われても、それまでの〈私〉の生い立ちを知らないから、この町にとどまるという結論に至った経緯がわからない。だが、この秀歌からは、何らかの葛藤を察することはじゅうぶんに可能だ。そのキーワードは、これもまた結句で唐突に現れた「ジャムサンド」だ。おそらくは杜の都に溢れ立つ、カフェ・ベローチェの苺ジャムサンドだろう。その手軽さ、その安さ、その薄さが切ないまでに甘ったるく香り立っているのだ。水の森の楓屋珈琲のジャムトーストでは、もてなしが手厚すぎるし、広瀬通の幸せのパンケーキなどでは、薄幸さが微塵も表現できない。カフェ・ベローチェの質素で安価な苺ジャムサンドの赤は、楽天カラーより鮮やかに、ずんだ餅の緑に匹敵するほどの地域色を感じさせてくれているのだ。その町に残ることは不本意なようでも、染みついた郷土愛が、軽やかに受け容れているのだ。まるでモーニングの苺ジャムサンドのように。上の句の「私は私」に呼応するように置かれた結句の「ジャムサンド食む」の音感が、仕方なく前向きに生活するその姿勢を巧みに浮かび上がらせている。喩えれば「ジャム」とは家族の問題と仕事の問題というパンに板挟みにされて、身動きができない現状の〈私〉なのかもしれない。
極悪のきのうのわたし図書館の新聞の曜日そろえず棚に
(東京 川崎香里)
たしかにこれは迷惑な行為に他ならないが、極悪というほどではない。「極悪」というのは、それこそ新聞に載るレベルの悪行であり、最近ニュースで目にする蔵書の学校史などの一部が切り取られる事件や、アンネ・フランクに関連した書籍の本文ページが手で破り取られるという事件などの犯罪のことだ。もちろん、所定の場所に新聞を戻さなかったことは確かに悪い。しかし、それを極悪と称する〈わたし〉、しかも昨日の行為をまだ気に病んでいるのだ。ともすれば、その心の美しさのほうが際立ってしまいそうになる作品だ。是非いつまでも戒めて図書館に伺ってほしい。だけどこうして愚行および居住エリアと名前が全国紙に掲載されたのでもう充分、懲罰に値しただろう。ただし、掲載を知って図書館に行ってみたら所定の場所に該当紙が置かれてなくて、さんざん探す破目に遭えばなお改心に有効だ。
「おやすみー」と伸ばして告げてそこからはひとりの長い夜が始まる
(栃木 早乙女 蓮)
一日の最後に交わす誰かとの挨拶語尾の長音の意味は果たして何だろう。近ごろはやたらと語尾を伸ばす女子が多くて辟易している。その意味がわからないから不快感を受けてしまうのだ。だけど「おやすみー」の長音は、やがて訪れる「おはよー」と繋ぐハグのようで嫌いではない。きっとそれに近い意味があるのだろう。親密な相手にしか使わない長音だ。これは就寝前の電話かもしれないが、その前には甘いピロートークがあったのだろう。もし甘い甘い「ピロートーーク」だったなら「おやすみーー」になるのだろうか。心が近しければ近しいほど会えないときは、空間的にも時間的にも隔たりを遠く感じてしまうのだろう。そんな不可視な遠近感を見事に描き出した一首だ。対象を深く愛するがゆえに長音の長さが、その後の孤独な夜の長さと比例しているようだ。
喫茶店に初めて一人で入ったあと急速に進んだ親離れ
(千葉 高橋好美)
あなたが大人になったと感じた瞬間はどんなときでしたか?という質問に対する答えのようでもある。大人になるきっかけは人それぞれだが、一人立ちというくらいだから一人で何かをした時を挙げる人も少なくないだろう。「喫茶店に入る」という行為自体は一瞬のことだ。小さなお金と小さな勇気さえあれば実際いつだって入れるのだが、そこには「人目」が立ちふさがったりもする。お洒落な客や、近所の他人や、まさかの肉親の目だ。そして自我には、一世代前に買い食いをした頃の後ろめたさが君臨していたりもするのだ。作者はそれらを振り払って見事に親離れを進めたようだ。しかし背後には、娘が喫茶店に一人で入ったことを見聞きして、子離れを加速する親がいたのかもしれない。