村弘氏穂の日経下段 #8(2017.5.20)
言うなれば知覚過敏のごとくなり四月五月の新人たちは
(白井 毘舎利道弘)
人物をモノではなくて状態に喩えてしまうところに、研ぎ澄まされたユーモアがある。通常、言うなればのあとには、もっと明確な名詞が置かれるはずなのに。過敏なのは主体でもあり、新人たち自身でもあるようだ。新人は六月もまだ新人であるはずだが、どちらかの心に目にはきっと、見えない何かがコーティングされて、すっかり治癒されることだろう。
少し痩せ足の爪切る態勢が楽になりたり日差し柔らか
(直方 石井真久良)
春の休日の縁側か、リビングの窓辺かわからないが、長閑な光景がはっきりと浮かんでくる。何より四句切れがとても効果的な作品。心象を述べる直接的な言葉を使わずに、気象を詠んだことで、ささやかな感動がなめらかに伝わってくる。その結句の、穏やかな心体を包み込む柔軟な日差しは、痩せる前は強硬だったのかもしれない。
風早の青田の中の無人駅降りる人なし乗る人もなし
(松山 白潟 勉)
揺れている青々とした苗と、乗降者ゼロで動きのない電車。その対比の味わいも然ることながら、終盤の打ち消しのリフレインからリアルな寂寥感が伝わってくる。都会であれば異様でも、これはどこかにある当たり前の日常風景。作中で唯一動いている青田は、若い世代の象徴でもある。この一枚の絵は、現代の都市と地方との危うい対比でもあるかのようだ。