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村弘氏穂の日経下段 #35(2017.11.25)

死んだ蝉羽根が壊れて青白い抜け殻ももう壊れたろうか
(東京 田中有芽子)

 過ぎ去ったひと夏を懐古しているようにも読めるが、失った大切なひとを追慕しているのかもしれない。それとも「青白い抜け殻」は青春のメタファーだろうか。そこにまだある壊れた羽根、そしてもうない抜け殻と、甦らない小さな生命をじっと見つめつつ、帰らない季節を遡っているのだ。朽ち果ててゆく亡骸を憂うばかりか、誕生した証でもある抜け殻さえも憂慮することで、虚しさに一層の奥行きが生まれた。同じ作者には【奇数本入りのパックが並んでる鳥手羽先の奇数奇数奇数】や【お母さんはあんたよりもっと殺してる巣に水を入れたりもした】などの秀歌もあるのだが、生命を凝視して記憶と掛け合わせて詩的に解いてしまう数式は奇妙かつ独特な切迫感がある。



晩秋の玄関網戸の隙間にはカメムシがいてそれでいいのだ
(枚方 久保哲也)

 網戸の隙間という場所からするとこのカメムシは、じっとしているのは間違いないだろう。しかし生きているのか、死んでいるのか、冬眠中なのか、この作品からそこまでは判断し切れない。判らないけどそれでいいのだ。作者がそう詠い切っているのだから。だけど大抵の人は、きっとカメムシがそこにいたら忌み嫌って殺虫剤を過剰に吹きかけたり、串やら釘を持ち出して隙間から弾き飛ばしたりして、ティッシュを五枚重ねてつまんで捨てるだろう。つまり、多くのひとは、それでよくないのだ。故にこの歌の可笑しさは、まさにその独特な感覚にあると云えるだろう。結句の「それでいいのだ」が無頓着からくるのか、慈愛の心からくるのかは判らないが、その姿勢自体が紛れもなくユニークなのだ。同じ作者には【海の家のハブラシ立ては逆さまに振るとたいていカニが出てくる】という秀歌もあるのだが、小世界を凝視してそこにある動も静も、ともすれば生はもちろん、死さえも諧謔的に描いてしまう機知は見事だ。

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