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村弘氏穂の日経下段 #36(2017.12.2)

自らの無実を証明するために店を出るとき手をパーにする
(札幌 清信かんな)

 右手の中にチロルチョコを隠し持っていないことや、左手の中に筋肉マン消しゴムを握りしめていないことを、お店の主人にアピールするために少女や少年が両手をひろげて退店する心理はよくわかる。防犯のカメラやセンサーがまだ普及していない頃なら尚更のことだ。しかし、どんなに防犯設備や意識が高まっても犯罪はもちろん、冤罪もなくならないだろう。この作品は犯罪心理ならぬ、冤罪心理を軽やかに詠っている。手をひろげて退店する行為は男性でいうところの、痴漢冤罪防止で両手でつり革を握る心理によく似ている。李下に冠を正さずという事だ。手をひろげることを「パー」にすると表現している点が巧くて、大人になっても身の潔白を主張する行為が幼少期と変わらないところが際立って面白い。「パー」には「頓挫する」とか「帳消しになる」ことや「元の木阿弥」などといった意もあるが、作者はこれまでの詰手が「パー」にならないために両手を「パー」にしているのだ。



ふりかけの黄色いやつが卵には見えない今日は何もしない日
(小牧 戸田響子)

 モチーフは『今日もおいしく丸美屋』の「のりたま」の黄色い粒だろう。日常の心象詠でありながら絶妙な心理詠でもある。「のりたま」の「のり」はまさしく海苔を刻んだ「海苔」そのものであるが、「たま」は決して「卵」そのものではない。調味料はもちろんのこと、着色料だって含まれている。だからこそそれが「卵」には見えなくて、単なる「黄色いやつ」としか認識できない日があっても何ら不思議はない。「黄色いやつ」である朝は何もしないと宣言してしまう作者の心理は解りかねるが、きっと経験上「卵」には見えないときの体調を思慮しているのだろう。実際のところ「卵」ではないものが卵に見えないのだからある意味、冷静な判断ができる日なのかもしれない。目の前に卵がない故にきっと、何かをしたところで何も生まれない日なのだろう。研ぎ澄まされて炊き上げた真っ白いご飯のうえに、独自の世界観が滲んでいる作品だ。



少しずつ小さな我慢かさねつつ優しい人から嘘つきになる
(東京 やすふじまさひろ)

 心理の変化が人間性の変化をも齎してしまうのだろうか。ここには何の設定も背景もないのだが、読者の心には各々のストーリー性をともなって届く。人生で我慢をしたことが一度もない大人なんてまず居ないのだから。今日までにに経験してきた仕事や恋愛における、数々の小さな我慢に当てはめて投影しながら読むことだろう。作品には「我慢→優しい人→嘘つき」という流れがあるが、それらは「我慢=優しい人=嘘つき」という等号でも実は成立し得る。ここでいう我慢と嘘の関係性は飛躍しているようだが、我慢に通ずる忍耐や辛抱は自己に正直な行為とは言い切れないだろうし、遠慮や謙遜だってある意味では嘘の仲間だ。つまり自己を見つめる心理は著しく変化しても、その本質は全く変化していないのかもしれない。優しさを否定して自己を嘘つき呼ばわりしてしまう作者の心理は、結局のところ優しいのだから。

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