村弘氏穂の日経下段 #40(2018.1.13)
投了し動かぬままで隅に居た香車に敬語で話す指先
(狛江 三上栄次)
将棋では一局のうちで香車が初期配置のままで全く動かないこともよくある。投了時の所作は人それぞれだが、指先が香車に敬語で話しかけるとは恐れ入った。出陣することなく後方から戦況をじっと見守っていた香車様に、労わりと投了した申し訳なさを込めて優しく撫でているのだろうか。その行為からは作者の敬意や礼節心が果てしなく広がる。駒に敬意を抱くということは、きっと周囲の目下の人々への配慮の意識も高いのだろうと思う。そして勝者への賞賛はもちろんのこと、ギャラリーや将棋盤や棋譜や座布団や畳や湯飲み茶碗への感謝から、プロアマ含めた530万人の将棋指しや古代インドのチャトランガへの敬意までも。長い突き武器である槍とも称される香車を一切用いなかった、という事実もまた相手への敬意の現われなのかもしれない。ただし、堅実な棋風がうかがえる一方、作者自身が地蔵流という可能性もある。つまりは、動かぬままで隅に居たのは香車であり作者でもあったのかもしれない。そうして相似した四角い将棋部屋と将棋盤との二重世界を想うと二局分愉しめる作品だ。
沈黙の美容師は彫刻家のよう 落ちてく髪が木くずに思える
(横浜 夏目陽子)
この作品には自身から放たれた髪こそ描かれているが、心象も含めて直接的な《わたくし》のスケッチがない。黙々とヘアカットする美容師をアーティストと喩えていながら。だが、そのことで作品の鑑賞に充分な拡がりを持つ。上の句と下の句の間の沈黙の具現化であるスペースから、語るべき《わたくし》の全てを読みとることができるのだ。美容師が彫刻家である以上は、自身は彫像に他ならない。やはり無言なのだ。髪が木屑であるから木像だ。おそらくはアカマツかヒノキの一木造だろう。木材である《わたくし》は、造形作家の技術に全幅の信頼を置いて身を委ねている状態なのだ。日本における木彫ゆえに完成形は仏像なのかもしれない。互いに無言のまま完遂に向けて静粛な時は過ぎてゆく。そんな芸術家と素材の一対一の緊張関係こそが、生み出される像に豊かな精神性や美しい表情を齎してくれるのだろう。鏡に映る《わたくし》の弥勒菩薩のように慈しみに溢れた穏やかなそのアルカイック・スマイルは、きっと見た全ての者を救済することだろう。無駄な句を削ぎ落として、シンプルな究極美のある短歌を彫り上げてしまう作者はまさに東洋の詩人だ。