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村弘氏穂の日経下段 #30(2017.10.21)

ぶらんこを乗り継ぎながらたどりつくどこにもゐないあなたのもとへ
(見附 有村桔梗)

 ブランコをモチーフにした詩歌は幾多とあるが、乗り継いでしまう歌を目にしたのは初めてだ。なによりその独特な発想が魅力的で、切なくも美しい世界がひっそりと描かれている。決して前には進まないはずの乗り物で辿り着いた先には、どこにも存在しないはずの「あなた」が居る。前にも後ろにも置かれた意外性に溢れるフレーズが、矛盾めいた結末へと読者をいざなう。幼少期に体感したあの爽快感はここにはない。作者によって導かれた奇妙な異界感に浸るしかないようだ。ぶらんこが寄せては返す追憶のメタファーとしてまだ揺れている。


三日間トイレの中にいた蜘蛛をティッシュに包み朝顔に置く
(古賀 砂山ふらり)

 よく漏斗状の物や、管楽器の先端部などを「朝顔」と呼んだりするが、いうまでもなくこの作品の「朝顔」とは小便器のことだろう。三日間もそこにいた蜘蛛は、作者から三日前には見逃してもらっているのだが、仏の顔も三日までだからあまりにも気の毒な制裁を受けてしまった。上の句の「三日間トイレの中にいた」という事実は一見、小世界に対する作者の凝視力を際立たせているようだが、実際には厳罰を下した作者の自己正当化に使われている。ただし末尾が「置く」であり流されてはいないので、四日目の蜘蛛の網にかかる作者を思い浮かべるとさらに愉しい作品だ。


うですりぬけて白いねこ ヒアルロン酸入り目薬させなかった
(南丹 山内しじみ)

 「白いねこ」という表現からは飼い猫というよりは、野良もしくは半野良の猫のような印象を受ける。角膜の傷に気づいたのだろうか、ややよそよそしさの残る呼称であるその白いねこに、ヒアルロン酸点眼をしてあげるのだから、愛情にあふれた行為に他ならない。しかしながら白いねこの側にもまだ、目の治療をしてくれる優しい人間に対してでさえ、よそよそしさがあるようだ。作者はまだ、優しそうな人間の域なのだ。ときには体をすり寄せて餌をねだることもあれば、警戒心が勝って、するりと逃げる日もあるのだ。ほんの数秒の出来事を詠っているこの作品には、助詞がひとつも存在しない。その修辞は「あっあっあっ」という刹那の出来事を強調するばかりか、それがまるで野良猫が人間の助力を必要としていないことを仄めかしてるような効果を発揮している。助詞を拒んでいるこの白い「ねこ」は立派な自立語なのだから。



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