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村弘氏穂の日経下段 #5(2017.4.29)

街灯に児童公園の桜見る花片はらり鉄棒へ散る

(大阪 森ユキノリ)

 漲る生のステージである児童公園と、生を完遂して散る花の対比が効いている。花冷えの夜の冷たい鉄に散る一片はなお死を際立てる。小さかった蕾が、健やかに膨らんで、期待通りに咲き誇って、やがて散り落ちて、土に還るまでの一連が、この舞台で繰り返し行われている。桜樹の下に陣取った鉄棒は子の手のひらの温もりも、散る花片の冷たさも知っているのだ。



美しき花は柩に収められすっかり灰になりて出てきぬ

(豊橋 滝川節子)

 
 近頃の別れ花は、白菊ばかりではなく、遺族の意向や故人の好みにも応じたりして、種類も増えて以前より華やかになった。しかし、火葬後にその美しき姿を留めていることはない。灰になってしまった様子への「すっかり」という一語に、まだ骨として残っている、同じく美しき故人をつよく偲ぶ作者がくっきりと現れている。

 

パソコンでデザインされた看板に埋め尽くされた町。僕は生きてる

(高知 廣江俊輔)

 地方都市へ行っても味わいのある手書きだったり、奇妙な風合いの絵の看板を見かける機会が確かに減った。整然とし過ぎていて、かえって居心地が悪くなることさえある。町が生まれ変わるということは、趣が死ぬことでもあるのだろう。この作品には、郷愁と自意識が、くらくらしつつも巧みに両立している。最後に定型からはみ出したレトリックには、変わりゆく町の中で、自分らしく生きようとする抵抗感が宿った。



なんとなく見てはいけないもののやう人の少ない朝の渋谷は

(東京 本多真弓)


 そう言われてみると渋谷の完全形には喧騒と雑踏が必須かもしれない。見てはいけないという不確かな意識は、おそらく確かなものだろう。足早な道玄坂の同僚も、シャッター前の酔いどれも、センター街のゴミ山も無口だが、絶対に見られたくないはず。同様に大型マルチビジョンもネオンサインも無口で消えている朝の渋谷。見て欲しいはずのものたちが全くアピールをしていないのだ。見てはいけないという意識は、作者の敏感なアンテナがとらえた渋谷という街からのサインであり、配慮なのだろう。

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