村弘氏穂の日経下段 #39(2018.1.6)
残業は素敵なことだと思ってたドラマでドラマが生まれていたから
(名古屋 土居 健吾)
残業をすることによって素敵なことが起こらなかったからこそ生まれた歌だろう。残業の残とは残念の残だ、ドラマはドラマでしかないのだ。現実世界と仮想世界とのギャップがあるからこそ、ドラマはドラマとして成立しているのだから。素敵なことや残業の結果に関しても具体的な明記はないのだが、かえってそれが読者の見たドラマの記憶を呼び起こして、作中の二つの過去形に共感して寂寥感を際立たせている。ドラマでありがちな素敵なこととは、例えば憧れの女子社員が手伝ってくれたり、素っ気無く先に帰った後輩の女子社員が戻ってきて夜食を差し入れたりしてくれることだろう。そんな予感で引き受けてしまった残業の果てには孤独感しか生まれなかったのだ。予想はずれの展開を表しているかのようにこの作品にはあるはずの7音が存在しない。5・8・5・8・8の破調で構成されている。拍数が定型を外れることによって、期待はずれの心象を描き出したのだろう。
東京タワーを見たあとで電車に乗って東京タワーの見えるとこに帰る
(東京 柳本々々)
その完成から六十年たった今でも東京の象徴は東京タワーであってスカイツリーではない。地方から初めて上京する者などは東京タワーに、富士山を拝むときのような畏怖さえ感じてしまうこともあるだろう。しかし、都民にとっての東京タワーの位置づけはどうなのだろう。その確かな答えがこの中に存在するようだ。この作品をあえて句切るならば8・5・7・8・9の破調だが、その効果もあって一見すると迂遠や徒労感が現れてくるのだが、読後にそれらは無意味や虚無感には決して繋がらない。この歌の情景には最初から最後まで東京タワーが居る。それは不変の場所に居て然るべきものであり、東京タワーは作者にとって、常に居てくれなければならない存在という証だろう。たまらなく不安な日も失望感に苛まれる日も東京タワーを見ることによって平常心を取り戻せるのだ。逆に東京タワーが拝めない場所に立つとアウェー感が襲ってくるのかもしれない。つまり都民にとっての東京タワーは、都心の象徴であると同時に安心の象徴でもあるのだ。作者を描いている作者のユニークな視点ははるか上空にある。故に読者もこの一日のシーンを俯瞰で見ることが出来る。そんな時空の構成にも妙味がある作品だ。江國香織の『東京タワー』的な秘密めいた妖しさも西岸良平の『三丁目の夕日』的な懐かしさもないのだが、「東京タワー」自身が主役となったとある都民のストーリーの原型と成り得る秀逸な散文詩といえよう。
温泉でエレベーターの乗り換えを不機嫌そうに教える整体師
(山形 うにがわえりも)
温泉街の旅館やホテルなどはもちろんのこと、スーパー銭湯のような施設であっても従業員の教育はしっかりと行き届いていて、その対応は素晴らしい。すれ違いざまに立ち止まって深々とお辞儀されたりすると、日帰りでろくに食事もとらない新卒の社会人などは恐縮してしまうほどだろう。だからこそ愛想のない対応は一段と目立ってしまうのだ。おそらくこの整体師は施設の直系の従業員ではないのだろう。外部からの嘱託社員か契約先の整体院からの派遣で、新卒の社会人よりも低賃金で勤務しているに違いない。不機嫌の根源はきっとそこにあるのだ。もてなしに溢れて癒されるはずの空間に存在する唯一のズレに直面してしまった作者の心にもやはりズレが生じてしまったのだろう。そのリアリティが痛烈でありながらも淡々と風刺している作品だ。四句目までは整った音調で詠まれているが、最後にガタガタになる5・7・5・7・9の破調。結句を意図的にズらすことによって心象のズレ具合を巧みに表現している。しかもその対象者がズレを矯正するはずの整体師であることで、見事に可笑しさの深みが増している。