村弘氏穂の日経下段 #37(2017.12.9)
寒いからラーメン作ると声を出す寒くなくてもラーメンなのに
(東京 海老根 清)
ラーメンフリークは何故、それを声に出してしまうのだろうか。おそらくそれは、偏食家というレッテルや、塩分や油分の過剰摂取による健康被害の恐れや、カロリー過多による肥満化、などという呪いを、ふり払って正当化する必要があるからだ。ラーメンを食べたいからラーメンを作るという当然の行為が、時間帯や食事間隔や健康状態などが思わしくない状況下では、ときに家族や恋人によって否定される恐れがあるのだ。しかしながら、寒いからと言えば、寒いなら生姜くず湯を飲みなさい、などとその夜に全く飲みたくもない代表のドリンクをすすめられたりすることもある。だからといって体を気づかってくれる誰かが居てくれるありがたみを決して忘れてはいけない。ひとり暮らしであれば声を出してからラーメンを作ることもないが、この名作が作られることもなかったのだ。情愛のフレーズを一切持ち出すことなく愛情を描いてしまうところが、何とも心にくい。
ひとりごつ「われらの時代終りぬ」と剃刀当つる理髪店主が
(武蔵野 三井一男)
店主は何故、それを声に出してしまったのだろうか。理髪店の店主が話しかけてくることはよくあるが、ひとりごとを言うことは稀だと思う。その近距離で言うことはほぼ、お客さんに聞こえてしまうはずなのだから。声に出さないまでも思うことはきっとたくさんあるだろう。あっ、ちょっと切りすぎちゃったかな、とか、あらあら頭頂部がずいぶん薄くなってきてるな、とか、おいおいハイネックのセーター着てくるなよ、など、大抵は言ってはいけないことばかり。言ってもいいことならば、ひとりごとではなくちゃんと話しかけているのだ。察するにこの作品においては顔そりの際に椅子を倒して仰向けで目を閉じている場面かもしれないのだが。しかし「われら」とは自分以外の誰かを含むはずだから同業の年配の理髪店主らかもしれないが、失礼なことに作者を含めてしまった可能性もある。そう考えると妙に面白い空気感が生まれる。もうひとつ興味深いのは、括弧でくくった店主の発言と思われる台詞までもが「終りぬ」という完了形の古語で表記されている点だ。文語で呟くことには違和感がある反面、それは店主の老齢と同時に、作者の皮肉めいた同意を暗に浮かび上がらせているようだ。上の句で宿ったどこか愉しい空気は、下の句の「剃刀」に切り裂かれて不穏な空気に一変している。