村弘氏穂の日経下段 #6(2017.5.6)
本当の気持ちの1.1倍の声で謝る遅刻の電話
(大阪 エース古賀)
謝意に含まれている誠意と真意は、常に同じとは限らない。目と目であれば伝わってしまうかも知れない本心だが、口と耳との関係であれば、加減が可能なのだろう。僅かなさじ加減の倍率に、狡猾さと後ろめたさが共存しているような面白味がある。『気持ち』という語自体、副詞的に使えば『ほんのわずか』。しかしながら、相手にも『気持ち』は存在するので、一割増しの謝罪の声を一割減で聞いている可能性もあるのだ。
父言いし「豆電球は消さないで」われも今そのひかり頼りに
(川崎 大里青望)
夜の寝室という小さな世界で頼るべきものは、確かな肉親ではなくて、微かな豆電球の光。真っ暗闇だけは、絶対に避けたい状況下の父子。明から暗へのカウントダウンの最後の望みである薄明かりに、ぼんやりと浮かび上がるのは、歌に書かれていないストーリーである。例えばそれは過去に、煌々と照明を点けっぱなしで寝たことを注意されたり、暗室で小鹿のように彷徨って無力に成り下がった家長や、枕辺の眼鏡を踏んでしまった子の、暗く切ないストーリーなのだ。
どのひとがぼくのママだかわからないみんなマスクをしてのぞくから
(横浜 芝 公男)
おそらくそこに居る人々は皆、誰かしらのママであろう。その中の自分のママを見つけられないことは、子どもにとっては一大事だ。招かざる花粉や黄砂がやってくることはもちろん迷惑だが、それを防御するマスクのせいで、本人の本物の母親だけが見せてくれる、微笑みという光線が不可視になり、異質の迷惑を被っている命もあるのだ。異様な光景の背後には、環境美化への願いも暗示されている。
動物を模したビスケットの中に見慣れぬかたちhumanとある
(東京 岡本真帆)
お菓子などにある動物の型は、何であれ大雑把なつくりをしている。英字の刻印は、ビスケットと同時に我々の知覚へと押し付けられているのだろうか。ジンジャーブレッドマンだって、丸っこくて粗雑な人型をしている。見すぎることによって、見慣れない錯覚に陥ることさえあるのが人間の脳だ。humanは刻印ではなくて、鋭い凝視力で炙り出した文字なのかもしれない。エスプリとシュールな感覚をあわせ持つ作者が、次にhumanを見続ければきっと新たなhumourが生まれることだろう。