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都電

不穏な夢だった。大きな事件が起こったわけではないけど小さな不安が積み重なっていくような夢だった。

私は設計事務所の一担当としてお客さんの前でA1サイズの図面を広げて住戸プランの説明をしていた。大きな施設で、40戸かそれ以上の部屋がその一枚の図面には描かれている。パッと見てすぐその内容が把握できないような、複雑な情報が細かく入っている。

そのプレゼンは順調かのように思えたが、お客さんの一人が「コレはなんですか?」と手を挙げた。住戸内の平面図なのに、クレーン旋回範囲、という文字と点線の円が描かれている。

しまった。気づかれた。
私はその記載ミスの存在を知っていたが、この紙資料を作り直すには一手間どころじゃないことを知っていた。プレゼンには支障ないと判断した。

しかし大いに支障をきたしてしまった。
車椅子の旋回範囲がきちんと確保されていることを示したかったのに、絶対に関係ないクレーンという言葉が入ってしまったことで情報の信憑性が下がってしまった。他にも同じようなものがあるのではないか、本当に寸法は確保されているのだろうか。そういう不安を煽ってしまうこととなった。その場で三角スケールをあてようとバタバタしていると、上司に制された。そりゃそうだ、え?寸法不安なんかい!ということになってしまうからだ。そうなってしまうとその回の打ち合わせの意味はなくなってしまう。夢でよかった。

現実の仕事ではそんな事は起きたことがない。何故なら絶対にそうならないように腑に落ちるまで図面を書き換え、上司と27時まで会社に残りながら資料をつくって整理していた。それでも、完璧な資料というものはできあがらないものだ。そこまでやってもどこかに古い情報が残っていたりするし、見落としがある。それだけ情報が複雑に飛び交うのが建築の設計というものだ。残業なんて一生無くならない。

夢の話に戻る。
そんな設計の仕事をする日常のなか、実家のコタツでリモートワークをしていた。夢の中では実家住まいのようだ。
よくわからないが、自室とリビングを行ったり来たりしている間に夜になった。
お母さんは?と妹に聞くと、帰り2時くらいになるらしい、と言う。2時って夜中の?
じゃあ終電の終電くらいか、となぞの言葉を発しながら、働いているわけではない母親の深夜2時になる用事を想像してみる。祖父が危篤なのかもしれないけど、祖父はもういないのだ。
まぁ一人になりたいこともあるのかもしれない、いつも行く美容室の奥さんもプチ家出をしたくなったら次に行こうと思っているおしゃれなカプセルホテルの話をしていた。旦那の目の前でプチ家出の話ができるのも微笑ましいが、私だったら絶対にプチ家出なんてされたくないので根本的に奥さんに尽くすようにして、頑張って働き家事も得意なのでやり、至れり尽くせりするだろう。でも結局自分が疲れてしまって結婚生活に飽き、子供がいようがなんであろうがもう興味がないので切り捨てて離婚することが容易に想像できる。
まぁそれはいいとして、母がいないならと私はノートパソコンとマウスとノートとペンを引っ掴んで、都電の駅に向かった。両手で抱えるのに必死な細々した荷物に苦労しながら、都電の線路を何故か歩き、乗りたい方面と逆の電車に汽笛を鳴らされてしまう。大きな音を鳴らされると身体中の血液が頭に上るような感じがあり頭部の血管が膨張するのを感じながら、すいませーんと乗りたいホームに足をかける。
一両編成の割にホームがながく、そして高低差がある。どっちにいればいいんだ?と思いながら、とりあえず高い方にいることにした。そこで「あっ!!」と思い出す。あのA1の図面も必要だった。私はその場にノートパソコンを立てかけて、マウスはポケットに入れてダッシュで家まで戻り、図面を回収して筒状に丸めながら走って駅のホームに戻ってくると、ちょうどきたばかりの都電に並ぶ長蛇の列、そして立てかけたノートパソコンを場所取りと捉える人、そうでない人で混乱が起こっている中、私は大きな図面とノートパソコンとマウスとノートとペンを両手に抱えながらポケットの中からSuicaケースを探す。Suicaケースはあったがそれはちょいお出かけ用の千円+会員証入れとなっておりSuicaは入っていない。そうかiPhoneかと思いiPhoneを探すが無い。右の後ろのポケット、右の前のポケット、左、ない。そもそも持ってきてないのかもしれない。長蛇の列。老人は見せるだけの定期で乗り込んでいく。Suicaがないなら千円札がある。千円札をSuicaケースから取り出そうとしてノートパソコンが落ちそうだ!!

夢はこれで終わりだが、思い当たる節はある。
美容室で髪を洗ってもらっている時、頭皮硬いね疲れてる?なんて言われたが、疲れることなんて一つもしていない。でもコーヒーさえ飲まなければ夜はしっかり眠れる。
思い当たる節はある、常に制作しているということは、常に絶望するということなのだ。自分の実力はこんなものなのか、そうじゃないはずだ、とどうにか絞り出し検証する、そんな毎日をノリノリで苦しみながらやっている。レコーディングして音程もリズムも修正された音源が上がってきて完成版となったとき、これが今の自分の実力なんだなとはっきりしてしまう。やってる事は違うのにどうしても他の音楽家の音源と比べてしまうものだ。ベストを尽くせば腑に落ちるかというとそうではないなぁと絶望する。少しでも絶望から這いあがろうともがき、そして人間社会から孤立し、やがて朽ちていく。

新興宗教が会員に勧誘を強要するのは、団体の運営にそれが必要なのではなく、その会員を社会的に孤立させてコミュニティを宗教団体に絞らせることが目的だという論を目にして、めちゃくちゃ納得してしまった。
うちの近くに巨大宗教団体の施設があって、たまにその集まりがあるようで道に案内の係を立たせるくらい大掛かりな集会のようだけど、駅からそこに向かう人たち、とても楽しそうでルンルンな顔つきをしていて、集会って楽しいものなんだなと最近思ったことがある。

写真は歌のテイク選定指示書。

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